李延寔
経歴
編集李沖の長男として生まれた。性格は温厚で、若くして太子舎人となった。宣武帝の初年、父の爵位を嗣いで、清淵県侯に封じられた。諸官を歴任して、左将軍・光州刺史となった。528年(建義元年)4月、侍中・太保に上り、濮陽郡王に封じられた。延寔は太保の官名が祖先の諱を犯しており、また王爵を受けるのは庶姓にふさわしくないと上表して固辞した。そこで濮陽郡公に改封され、太傅の官に転じた。529年(永安2年)、司徒公に転じ、使持節・侍中・太傅・録尚書事・青州刺史として出向した。530年(永安3年)、爾朱兆が洛陽に入ると、延寔は青州で捕らえられて、州館で殺害された。孝武帝の初年、遺体を洛陽に運ばれて葬られた。使持節・侍中・太師・太尉公・録尚書事・都督・雍州刺史の位を追贈された。諡は孝懿といった。