東条藩(とうじょうはん)は、江戸時代初期の安房国に存在した。藩庁は長狭郡東条村(現在の千葉県鴨川市東町)に置かれた[注釈 1]譜代大名西郷家が3代約70年にわたって治めた。

歴史 編集

 
 
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東条
関連地図(千葉県)[注釈 2]

江戸時代初頭、安房一国は戦国大名に起源を持つ館山藩里見家が治めていたが、慶長19年(1614年)に改易処分を受けた。江戸幕府は安房国の再検地元和4年(1618年)に終え、以後は安房国を大身旗本や小大名に配分する[2]

元和6年(1620年)9月、下総国生実で5000石を知行していた旗本西郷正員は、安房国で5000石の加増を受けて1万石の大名となり[1]、東条に陣屋を構えて東条藩を立藩した[2][1][注釈 3]。東条藩は、館山藩改易以後はじめて安房国に藩庁を置いて成立した藩である。なお、正員は館山藩改易に際して、城地の収公の任を担った一人であった[2]。藩領は朝夷郡19ヵ村6894石、長狭郡4ヵ村3106石の計1万石。

正員は寛永15年(1638年11月14日に死去し、跡を子の延員が継いだ。延員は名君で、領民にも慕われていたと言われているが、後継には恵まれなかった。元禄3年(1690年12月25日、家督を養嗣子の寿員に譲って隠居したが、間もなく幕府から不行状を理由に蟄居処分となった。

徳川綱吉の側近として仕えていた寿員は、元禄5年(1692年2月7日下野国上田かみだに移封され(下野上田藩)、東条藩は廃藩となった。

なお、下野上田藩も間もなく所領半減の処分を受けて廃藩となっており、寿員は5000石の交代寄合として生涯を閉じている。

歴代藩主 編集

西郷家

譜代 1万石

  1. 西郷正員(まさかず) 若狭守。清員の孫。
  2. 西郷延員(のぶかず) 正員の嫡子。
  3. 西郷寿員(ひさかず) 延員の養嗣子。大村純長の五男。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 鴨川市東町には「西郷氏館跡」と呼ばれる遺構があり、1995年に行われた発掘調査では堀で囲まれた郭が確認されるとともに[1][2]、大量の陶磁器が出土した[1][2]。中世に用いられた屋敷地(在地の武士であった東条氏のものか)を西郷氏が入部に際して改修し、近世陣屋にしたとみられる[2][3]
  2. ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
  3. ^ 西郷氏が東条に入封したのは寛永5年(1628年)とする説もあり[1]、また東条に入る前に天津日澄寺を仮陣屋としたという説もある[1]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f 東条陣屋” (pdf). 千葉県教育振興財団研究紀要 第28号 房総における近世陣屋. 千葉県教育振興財団. pp. 80-81 (2013年3月). 2018年4月15日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 南房総の歴史・行政史 幕藩体制”. 南房総郷土史. 南房総市. 2016年2月26日閲覧。
  3. ^ 南房総の歴史・行政史 守護領国制”. 南房総郷土史. 南房総市. 2016年2月26日閲覧。

関連項目 編集