東鯷人

中国の史書において東シナ海の東に住んでいたとされる民族

東鯷人(とうていじん)は、中国の史書に見える、中国から東シナ海で隔たった東側に住んでいた民族の名称。東鞮とも表記される。倭人との関連が指摘されている。

東鯷人について記された資料 編集

『法言』 編集

東鯷人について記された現存する最古の資料は、楊雄天鳳元年(14年)から同5年(18年)の間に編纂した[1]法言』である。『法言』には以下のように記されている。

黃支之南、大夏之西、東鞮、北女、來貢其珍。

これによると、正確な時期は不明であるものの、東鞮が自国の珍しい品物を前漢あるいは(『法言』の成立時期や『漢書』の記述を鑑みるに新の王莽に対してである可能性が高い)に貢いだとされる。

『漢書』 編集

後漢章帝の時代に、班固班昭によって編纂された『漢書』には、地理志呉地条に

會稽海外有東鯷人、分為二十餘國、以歲時來獻見云。

という記述がある。これは燕地条にある倭人について説明した

樂浪海中有倭人、分為百余國。以歳時來獻見云。

という記述とほとんどが一致する。

また、直接東鯷人を表す文言は登場しないものの、前述の『法言』に関連すると考えられる記述が王莽伝に存在する。王莽伝の元始5年条には

莽既致太平、北化匈奴、東致海外、南懷黃支、唯西方未有加。(中略)東夷王度大海奉國珍(後略)。

という記述がある。

『後漢書』 編集

劉宋范曄西晋司馬彪によって編纂された『後漢書』には、東夷伝に東鯷人についての記述が見える。

會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絕遠、不可往來。

ここでは、徐福一行が不死の薬を求めて東方へ向かった話と、その行き先が「澶洲」であったとあり、東鯷人について記されているわけではないが、同じ節に東鯷人と澶洲が登場していることから、范曄は東鯷と澶洲を同一であると考えていたと思われる。

なお、西晋陳寿が編纂した『三国志』呉書呉主伝第二黄龍2年(230年)春正月条には、澶洲(亶洲)について

遣將軍衞溫、諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中、長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海、求蓬萊神山及仙藥、止此洲不還。世相承有數萬家、其上人民、時有至會稽貨布、會稽東縣人海行、亦有遭風流移至亶洲者。 所在絕遠、卒不可得至、但得夷洲數千人還。

とあり、呉志陸遜伝には

(孫)権遂征夷州得不補失。

とある。

『文選』 編集

南梁昭明太子が編纂した『文選』に収録された、西晋左思の魏都賦には、以下の句が存在する。

(前略)於時東鯷即序、西傾順軌。荊南懷憓、朔北思韙。(後略)

『北堂書鈔』 編集

末の大業年間(605年616年)に虞世南が編纂した『北堂書鈔』には、

漢書云、會稽海外有東鯷壑、分為二十餘國、以歲時來獻。

とあり、東鯷壑という地名が見える。

『翰苑』・『魏略』 編集

の時代に張楚金が編纂した『翰苑』の三韓条と、そこに引用されたの官僚・魚豢が編纂した『魏略』には、

境連鯷壑、地接鼇波。魏略曰、韓在帶方南。東西以海爲限、地方四千里。(中略)鯷壑、東鯷人居、海中州、鼇波、俱海中有也。

とあり、鯷壑という場所に東鯷人が住んでいたとされる。

東鯷とは 編集

「東鯷」という単語の詳細な意味は不明だが、それに関連すると思われる記述はいくつかの書物に残されている。

『周礼』 編集

周礼』には、少数民族の歌や踊りを司ったの官職として「鞮鞻氏」が見える。

謂春官所屬有鞮鞻氏、設下士四人及府、史、胥、徒等人員。掌四夷之樂與其歌聲。鞻讀為屨、意為鞋子。鞮鞻、舞者所穿的革制之鞋。

『戦国策』 編集

前漢劉向が編纂した『戦国策』の趙策趙二篇には以下のように見える。

黑齒雕題、鯷冠秫縫、大吳之國也。

これによると、「鯷冠」を被ることがの文化であったとされ、「東鯷」という語は呉の東方を指すと考えられる。

「永明楽」  編集

南斉謝朓が作成した「永明楽」という詩には以下のように見える。

化洽鯷海君、恩變龍庭長

鯷海とは東シナ海のことであると考えられる。

「従軍行」 編集

南梁沈約が作成した「従軍行」という詩には以下のように見える。

浮天出鯷海、束馬渡交河

脚注 編集

注釈 編集

出典 編集

  1. ^ 汪栄宝『法言義疏』 巻二十https://archive.org/stream/02091551.cn#page/n58/mode/2up 

関連項目 編集