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松前 徳広(まつまえ のりひろ)は、江戸時代末期の大名蝦夷地松前藩の13代藩主。

 
松前徳広
Matsumae Norihiro.jpg
時代 江戸時代後期 - 末期(幕末
生誕 天保15年3月14日1844年5月1日
死没 明治元年11月29日1869年1月11日
改名 明之助・準之助・準之丞(幼名)、徳広
諡号 桜陰、忠粛
戒名 寛裕院殿竜興忠靖大居士
墓所 北海道松前郡松前町 大洞山法憧寺
青森県弘前市 長勝寺
官位 従五位下志摩、贈従四位
幕府 江戸幕府
主君 徳川慶喜
蝦夷松前藩
氏族 松前氏
父母 父:松前昌広、母:山崎十三
養父:松前崇広
兄弟 徳広縄之助
正室内藤正縄娘・光子(寿子)
修広敬広

生涯編集

天保15年(1844年)3月14日、11代藩主・松前昌広の長男として福山城で生まれる。嘉永2年(1849年)に父が隠居したが、徳広は幼少だったため叔父・崇広が藩主に就任した。嘉永6年(1853年)3月に世子に指名され、安政5年(1858年)12月に従五位下、志摩守に叙位・任官する。

慶応2年(1866年)4月に崇広が死去したため、その養子として家督を相続した。文人で尊王派であったがしかし元々肺結核かつ重度の痔疾で、さらに精神病でもあったために政務を執れず、さらに松前氏では若年で家督を継ぐ藩主が続いたことから、歴代藩主は重臣に統治を任せ、結果として専横への不満が藩にくすぶっていた。また藩は新政府方と奥羽越列藩同盟にそれぞれ遣いを立てる日和見政策を取っていたため、藩内の両派閥の不満もあった。同年11月に徳広は藩主を退く発言をしたため、藩を主導する筆頭家老の松前勘解由らは崇広次男の敦千代(松前隆広)の後継擁立を画策した。しかし日頃から勘解由の執政に批判的な勢力がこれに反発し、勘解由は家老を解任・蟄居となる。ただし勘解由抜きでは藩政はままならず、慶応4年(1868年)4月には家老に復帰。

慶応4年(1868年)7月には鈴木織太郎下国東七郎ら尊皇派の40名余の家臣団らが蜂起した。箱館の新政府方と連携し、正議隊を名乗って徳広に対し建白書を提出、佐幕派の一掃と勤王への転向を強要した。弱っていた徳広はこれを承諾したため、慌てた家老の松前勘解由は急遽登城しようとするが果たせず、集まった1千名もの藩士とともに藩の武器弾薬庫から武器を出し、松前城の東にある法華寺から正議隊が立て籠もる城中への砲撃を企図するが、君臣の分を弁えよと説得され思いとどまる。翌29日に勘解由は家老を罷免された。8月1日に正義隊は佐幕派重臣らを襲撃、勘解由も屋敷を襲撃されるがこれは撃退するも、8月2日に自宅禁固となり、8月3日、勘解由は切腹となった。その他重臣の多くは正議隊の思うままに処罰され、正議隊により新たに合議局・正議局・軍謀局などが創設され、人材の新たな登用なども行なわれるなどしたが、藩内は著しく混乱した。

この状況の中、藩は箱館戦争を迎えることとなる。

箱館戦争編集

同年10月には榎本武揚らの旧幕府軍が北海道に来襲、箱館の五稜郭を拠点として松前に攻め込んだ。これらの動きに備えて新規に構築しつつあった館村新城(館城)に10月28日までに藩主一同および藩の主力は移動した。11月1日に榎本軍の軍艦蟠竜が松前を砲撃している。松前藩は榎本軍を奇襲するも撃退され、11月5日に松前に土方歳三を総督として彰義隊額兵隊衝鋒隊などからなる700名が来襲し、搦手門から攻めかかってきた。城代家老蛎崎民部を中心に五百名あまりが籠城した松前城は、その構造が搦手門からの攻撃をほぼ想定しておらず、さらに防衛戦力を欠いていた松前城は大砲で抵抗するも数時間のちに開城した。残存の藩兵は城下に火を放ち、江差方面へ退却した。

一方、榎本軍の別働隊500名が、徳広らの逃れた先の館城攻略に来襲した。しかし藩主らは12日に西在熊石村に避難済みであり、城には60名ほどが籠っていただけであった。11月15日午前9時頃攻撃が開始され、1時間ほど激しい銃撃戦が続いた後、表門の下の隙間から侵入した旧幕府兵が門を開け、兵が乱入し白兵戦となった。まな板を盾にしつつ太刀で戦い壮絶な戦死を遂げた三上超順の奮戦もあったが、城は落城した。なお、箱館戦争終結後、松前藩は館城にちなんで「館藩」を名乗った。

22日、追撃する榎本軍が熊石村に到着すると、徳広ら男女60余名は既に本土の弘前藩へ落ちて行った後であった。残存の藩士ら300名が榎本軍に投降した。

時を同じくして、江差に逃れた松前藩軍を攻めるために榎本軍の主力軍艦開陽が派遣されたが、江差の松前藩兵は既に退却済であった。道中で大滝陣屋を落とした額兵隊が15日に陸から江差に攻め込んだ際、江差は既に榎本海軍により占拠されていた。しかし同夜、天候が急変し、風浪に押されて開陽は座礁した。箱館から回天神速丸の二隻が開陽救出のために江差に到着したが、神速丸も座礁。為す術なく総員退艦した開陽は数日後に沈没。これにより榎本軍は頼みの海上戦力を大きく減らすこととなり、新政府方の軍の上陸を安々と許すこととなった。

徳広らは11月24日には弘前藩領の薬王院に逃れたが、ここで喀血して倒れ、11月29日に死去し長勝寺に埋葬された。『弘藩明治一統誌』によれば咽を突いて自殺したとある。享年25。

明治3年(1870年)10月、長勝寺に仮葬した遺骸を菩提寺である法憧寺へ改葬された。

長男・修広が幼くして跡を継いだ。

明治29年(1896年)5月20日、贈従四位

著作編集

  • 『蝦夷嶋奇観補注』