松平重治

日本の江戸時代前期の大名。江戸幕府旗本品川高如次男で、上総佐貫藩初代藩主松平勝隆養子。佐貫藩2代藩主。従五位下宮内少輔・出雲守・山城守・修理亮

松平 重治(まつだいら しげはる)は、江戸時代前期の大名上総国佐貫藩2代藩主。官位従五位下宮内少輔出雲守山城守修理亮

 
松平重治
時代 江戸時代前期
生誕 寛永19年(1642年
死没 貞享2年8月2日1685年8月31日
改名 伝三郎(幼名)→重治
別名 忠勝
墓所 福島県会津若松市門田町の大窪山墓地
官位 従五位下宮内少輔出雲守山城守修理亮
幕府 江戸幕府 大坂加番奏者番寺社奉行
主君 徳川家綱綱吉
上総佐貫藩
氏族 品川家能見松平家
父母 父:品川高如、母:松平勝隆養女
養父:松平勝隆
兄弟 養兄弟:重隆勝広伊東長治正室
品川高如正室
正室:久世広之
重宗品川伊氏勝秀品川信方
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生涯

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寛永19年(1642年)、高家品川高如の次男として誕生。初代藩主・松平勝隆の養子となっていた勝広が廃嫡されたため、代わって慶安5年(1652年)6月に勝隆の養子となる。明暦3年(1657年)12月、従五位下・宮内少輔に叙位・任官する。寛文2年(1662年)9月に養父の隠居に伴い家督を継ぎ、出雲守に遷任する。

寛文5年(1665年)12月、山城守に遷任する。寛文6年(1666年)12月には、勝広の長男・勝制に新田500石を分与する。寛文7年(1667年)に大坂加番、寛文10年(1670年)4月に奏者番延宝6年(1678年)3月には寺社奉行に任じられた。天和元年(1681年)11月、修理亮に遷任する。

貞享元年(1684年)11月10日、追放されていた羽黒山山伏・良覚の面倒を見るなど、みだりに身分の低い者と交わって綱紀を乱したとして改易され、身柄は陸奥国会津藩主・保科正容に預けられた。重治は300俵高となり、佐貫城は破却された。貞享2年(1685年)2月、身柄を江戸から会津に移送されたが、直後に病に倒れて8月2日に死去した。享年44。

死後、嫡男・勝秀は許され、500石の旗本として存続した。

系譜

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