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柳本 賢治(やなぎもと かたはる)は、戦国時代武将

 
柳本賢治
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 享禄3年6月29日1530年8月2日
官位 弾正忠
氏族 丹波波多野氏岩崎氏柳本氏
父母 父:波多野秀長
兄弟 波多野稙通香西元盛賢治
甚次郎

目次

略歴編集

波多野秀長の子として誕生。初めは先に仙甫寿登の弟子として僧侶になっていた兄の稙通[1]が還俗して波多野氏を継いだため、代わりに仙甫寿登に弟子入りして名を寿犀・号を仲霊と名乗った。ところが、細川高国の命によって13歳で還俗して山科興正寺の寺侍である岩崎太郎左衛門の養子となり[2]、後に永正17年(1520年)に嫡男共々戦死した柳本長治の後継として柳本氏を継いだ[3]

細川高国に仕えていた摂津国分郡守護細川尹賢から偏諱を受け賢治と名乗る。また、大永8年(1528年)頃より、長治と一緒に戦死した嫡男(実名不詳)の官途名である弾正忠を用い始める[4]

大永6年(1526年)、細川高国の家臣であった実弟・香西元盛が細川尹賢の讒言を信じた高国に殺害されると、賢治や兄・波多野稙通阿波国細川晴元三好元長らと呼応し反乱を起こし、高国の追討軍を神尾山城に籠り撃退する。翌7年(1527年)に晴元・元長らと共に高国を打ち破る(桂川原の戦い)。高国や12代将軍足利義晴京都から近江国へ追い出した上で、足利義晴の弟・義維に迎え、堺公方として擁立した。

その後、享禄元年(1528年)には元長と対立し、晴元に讒言し元長を阿波に追いやり、元長の与党である赤沢幸純伊丹元扶を攻めるため大和国や摂津に出陣した。巻き返しを図った高国が、縁戚の伊勢国北畠氏に上洛を要請し、備前国浦上村宗を頼り畿内を脅かすと、賢治は義晴との和睦を主張したが、義維と晴元に拒絶され、剃髪する。

享禄3年(1530年)、別所就治の要請に応じ、浦上氏方の依藤氏を攻撃するため播磨国に出陣したが、依藤城を攻撃中(依藤城の戦い)、東条谷の玉蓮寺の陣中で死去。自害したとも暗殺されたとも言われている。

子・甚次郎は享禄5年(1532年1月22日に居城の京都三条城で元長率いる阿波軍に討ち取られた。また、家臣の山村正次は晴元に従い、後の享禄・天文の乱山科本願寺の戦いに従軍している。

脚注編集

  1. ^ 馬部隆弘によれば、『二水記』大永6年11月5日・『細川両家記』大永6年7月13日条より、稙通・元盛・賢治の兄弟順が正しく、更に稙通が最初は僧侶になっていることから早世したと思われる長兄の存在を想定する(馬部、2018年、P117)。
  2. ^ 『稙通公記』享禄2年5月26日条に、賢治の名代として九条邸を訪問した岩崎と会った九条稙通が彼は柳本弾正忠(賢治)の養父であったと記している(馬部、2018年、P118.)。
  3. ^ 馬部、2018年、P115-119・292-293.
  4. ^ 馬部、2018年、P116・121.

参考文献編集

  • 馬部隆弘「「堺公方」期の京都支配と柳本賢治」」(初出:『ヒストリア』第247号(2014年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6
  • 馬部隆弘「細川高国の近習と内衆の再編」(初出:『史敏』通巻13号(2015年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6)* 今谷明 『戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名』洋泉社(MC新書)、2007年。

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