桜川末子・松鶴家千代八
桜川末子・松鶴家千代八(さくらがわすえこ・しょかくやちよはち)は、昭和期に活躍した音曲漫才コンビ(1954年 - 1974年)。
恰幅の良い末子が男勝りの気っ風と節回しで聞かせる江州音頭と、痩躯の千代八が甲高い声で細棹を弾き語る座敷唄の数々、締めには定番の数え歌でウケを取った。十八番に野球の数え歌がある。
1954年にベテラン同士で結成。高齢を理由に1974年10月に大阪府大阪市にある新花月にて引退興行[注釈 1]するまで、上方芸界の大看板として20年間活動し続けた。尚テレビなどで古典万歳の三曲万歳が披露されるとよく出演していた。
メンバー
編集- 17歳頃に、それまでは好きでやっていたという江州音頭の音頭取りとしてプロの道へ。その後18歳で結婚し一旦引退したが、19歳のとき夫と子供が相次いで亡くなったことで再びプロとして寄席に出ることとなった。少女音頭取りとして、明治末から今で言うアイドル人気を博していたが、1920年頃櫻川仙丸から櫻川仙末女(さくらがわせんまめ)の名を貰い一本立ちした。
- 江州音頭の営業が減少する農繁期対策で、1921年に荒川竹春>とコンビを組み、天満朝日席で漫才初舞台[2]。引退まで続いた数え唄は、このときのコンビから始まり、当時から人気を博したネタとなった[2]。
- 神戸の江州音頭大会に出演していたときに吉本興業の林正之助の目に留まって引き抜かれ、1924年に櫻川花子と日本初の女性コンビ『末子・花子』で売り出される。三代目桂米朝をして「戦前の吉本を儲けさしたんは末子」と述懐しむるほどの絶大な人気を誇った[3]。
- 1944年、花子の出産に伴いコンビ解消。立美三好、高田久子と相方を変えた後、1954年から二代目千代八と組み、高座、座敷、ラジオ・テレビのみならず、従前櫓の上でも引く手数多だった。
- 1960年代後半には体調を崩し一時舞台を休んでいたが、1970年の大阪万博を機に猛然と復活、道頓堀角座で大トリを張り連日満杯の客を捌いた。
- 鼓を携えた勇姿は女捨丸(おんなすてまる)[注釈 2]と讃えられ、客からも「女捨丸」と声がかかった。
- 2人目の夫櫻川定丸は相方花子の父親で、作家(ネタ)でもあった。二周り近く歳が離れていたため、普段は親子として、子供は夫の孫として周囲に紹介していた[4]。1分でも早く舞台を降りると「おまはんは、サボってる」と叱られたと言う。それほど芸に厳しかった。
- 桂米朝は末子の大ファンで必ず弟子等に楽屋のソデから生の舞台を見させていた。
受賞歴
編集録音・映像
編集- 伝説の昭和上方漫才 松竹名人会
脚注
編集注釈
編集出典
編集関連項目
編集- 以下初代千代八門下
- 松鶴家日の丸
- 松鶴家光晴
- 松鶴家千代若・千代菊
- 華井八千代・秀子
- 以下同じような芸風のコンビ。
参考文献
編集- 「現代上方演芸人名鑑」(1980年、少年社)