比企 三郎(ひき さぶろう)は、鎌倉時代前期の比企一族の武士鎌倉幕府有力御家人比企能員の子[2]。実名については宗員とする説[5][6][注 1]宗朝とする説[1][7][注 2]がある。

 
比企三郎[1]
時代 鎌倉時代前期
生誕 不明
死没 建仁3年9月2日1203年10月15日[2][3]
別名 弥三郎[4]、宗員?[5][6]、宗朝?[1][7]
主君 源頼家
氏族 比企氏
父母 父:比企能員[2]
兄弟 余一兵衛尉三郎時員、五郎、能本若狭局笠原親景妻、中山為重妻、糟屋有季[2][8]
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生涯 編集

建久10年(1199年)、源頼家十三人の合議制に反発し、狼藉不問などの特権を与えた取次役の5人に弟の比企時員小笠原長経中野能成らとともに選ばれている[1][9]正治元年(1199年)、頼家が鎌倉不在の御家人・安達景盛を奪った際には、小笠原長経、中野能成、和田朝盛細野四郎とともに加担。後に景盛が訴えを起こしたため、頼家より他の4人らとともに景盛追討を命じられた。この争いは頼家生母・北条政子の奔走によって回避されたが、後に政子は三郎ら頼家側近を「邪侫之属」と非難している[10]。その後も頼家の近臣として名が見られるが[4]建仁3年(1203年)に比企能員の変が起こると時員ら一族とともに小御所に籠もり、北条氏方に攻められて討死した[2][3][7][11]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 吾妻鏡正治2年(1200年)2月26日条には「比企判官四郎宗員」、『比企氏系図』には「比企次郎宗員」という人物が出てくるが、比企三郎と同一人物かは不明。
  2. ^ 北條九代記』『保暦間記』の建仁3年(1203年)9月2日条には比企能員の子息として宗朝という人物のみが出てくるが、能員の子息のうちどの人物に該当するかは不明。

出典 編集

  1. ^ a b c d 『大日本史料』4-6, p. 104.
  2. ^ a b c d e 菊池 1990.
  3. ^ a b 『大日本史料』4-7, pp. 895–896.
  4. ^ a b 『大日本史料』4-7, p. 552.
  5. ^ a b 永井晋『鎌倉幕府の転換点 「吾妻鏡」を読みなおす』日本放送出版協会、2000年、p66。
  6. ^ a b 坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』PHP新書、2021年、p129
  7. ^ a b c 『東松山市の歴史』, pp. 366.
  8. ^ 『大日本史料』4-7, p. 896.
  9. ^ 安田 1992.
  10. ^ 『大日本史料』4-6, pp. 208–209.
  11. ^ 『大日本史料』4-7, pp. 898–899.

参考文献 編集

  • 大日本史料 第四編』 6巻、東京大学出版会、1968年。ISBN 9784130901567 
  • 『大日本史料 第四編』 7巻、東京大学出版会、1970年。ISBN 9784130901574 
  • 東松山市市史編さん課 編『東松山市の歴史』 上、東松山市、1985年。 
  • 菊池紳一 著「比企氏の乱」、国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 11巻、吉川弘文館、1990年。ISBN 9784642005111 
  • 安田元久 著「源頼家」、国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 13巻、吉川弘文館、1992年。ISBN 9784642005135