池永浩久

日本の映画プロデューサー・実業家・元俳優(1877−1954)
池永和央から転送)

池永 浩久(いけなが こうきゅう、明治10年(1877年3月24日 - 昭和29年(1954年3月6日[1])は、日本の映画プロデューサー実業家、元俳優である。日活向島撮影所長を皮切りに、撮影所長を歴任し、やがて太秦発声映画を設立、現在の東宝の創成期に関わった人物として知られる。本名は三治、俳優時代の芸名は澤田 憲澤田 三治[1]

いけなが こうきゅう
池永 浩久
本名 池永 三治
別名義 澤田 憲
澤田 三治
生年月日 (1877-03-24) 1877年3月24日
没年月日 (1954-03-06) 1954年3月6日(76歳没)
出生地 大分県
死没地 京都府京都市
職業 映画プロデューサー実業家、元俳優
ジャンル 壮士芝居サイレント映画時代劇トーキー
活動内容 壮士芝居
横田商会二条城撮影所 俳優
横田商会法華堂撮影所 俳優
日活関西撮影所 俳優
日活向島撮影所 所長
日活大将軍撮影所 所長
日活太秦撮影所 取締役所長
J.O.スタヂオ 顧問
太秦発声映画 取締役
東宝映画 取締役
東宝 取締役
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来歴 編集

1877年(明治10年)3月24日大分県に池永三治として生まれる[1]

当初壮士芝居の俳優として活躍。山田九州男山田五十鈴の実父)の一座にいたこともある。

1910年(明治43年)、33歳を迎え、牧野省三の紹介で横田永之助横田商会二条城撮影所で、同社製作の映画に出演した[1]。当時の芸名は澤田憲[1]、澤田三治であった。1912年(明治45年)1月には新規開業の法華堂撮影所に移転、同年(大正元年)9月10日、横田商会を含めた4社合併で日活が設立されると、牧野とともに日活に残った。

やがて俳優業を引退し、「池永浩久」と改名、1922年(大正11年)5月、45歳のころ、東京の日活向島撮影所長に就任する。同撮影所は、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で壊滅、復興につとめるも同年11月14日、京都の日活大将軍撮影所に全従業員を移転させる。池永は同所長に就任する[1]。池永と千本組笹井静一との当時の結びつきは強く、池永みずから「笹井の影に池永あり、池永の影に笹井あり」と語っていたという[2]

1927年(昭和2年)12月、50歳のころ、日活太秦撮影所を開業し同社取締役所長に就任した[1]。1932年(昭和7年)には監督・脚本家であった横田豊秋を俳優に転向させた[3]。同年8月、中谷貞頼専務取締役による大解雇事件により日活を退社し、56歳となる翌1933年(昭和8年)3月に大澤善夫が設立したJ.O.スタヂオの顧問となる。同社内に太秦発声映画を設立して取締役となった[1]。1936年(昭和11年)、昭和会から衆議院議員選挙に立候補するが落選した。

1937年(昭和12年)9月10日、J.O.スタヂオを含めた4社合併で東宝映画が設立されると、同社の取締役に就任した[1]。1943年(昭和18年)12月、同社は東京宝塚劇場と合併し、現在の東宝になり、池永はひきつづき取締役となった。1947年(昭和24年)、70歳で退任した[1]

1954年(昭和29年)3月6日、死去した[1]。満76歳没。

人物・エピソード 編集

日活京都の名物所長として、「人情所長」、「天神さん」、「聯隊長」とも呼ばれ、所員の多くに人気があった。「天神さん」と呼ばれたのは菅原道真のようなヒゲを生やしていたからで、「聯隊長」というのは所員に対する演説の口調が、ちょうど聯隊長の訓示に似ていたからである。「人情所長」は言わずと知れた人情にもろいことで、俳優が金を借りたい時など「母が病気で・・・国へ帰りたいと思いますので少々・・・」などと湿っぽい口調で願い出ると、「ウンそうか、親孝行のためかッ」と、十円くらいは貸してくれたのである。

中にはこの手で借りた金を遊蕩に使ったり、洋服の借金を払ったりする者もいたが、それがばれても「だまされたのは俺の不徳だ」と言って、カンラカラカラと笑ってすんだ。あるとき、涙を流して「母が亡くなったので」と借金を申し出た俳優がいて、池永所長は同情して十円の旅費に五円の香典まで添えて渡した。この俳優が所長室を出ようとしたときに小首を傾げ、「待て待て、お前のお母さんは昨年亡くなったのと違うか」と聞いたところ、俳優はしまったとばかりに飛んで逃げて行ってしまった。このときも池永所長は「またやられたか」とばかり、カンラカラカラと笑ったという[4]

池永は役者時代に山田九州男の一座にいたことがあるので、座長の娘である山田五十鈴を日活のニューフェイスとして売り出すことはいわば恩返しでもあった。池永は所長当時、京都下河原の料亭旅館「さくら家」を私的な定宿にしていて、所長の前歴がゴシップになることを恐れた池永は、山田五十鈴との契約をこの宿で秘密裏に行っている[5]

おもなフィルモグラフィ 編集

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  1. ^ a b c d e f g h i j k コトバンクサイト内の記事「池永浩久」の記述を参照。
  2. ^ 同志社大学公式サイト内の冨田美香紙屋牧子権藤千恵による記事「小林昌典氏談話」の記述を参照。
  3. ^ 『日本映画俳優全集 男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「宇留木浩」の項(p.85-86)を参照。同項執筆は吉田智恵男
  4. ^ 『ひげとちょんまげ』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  5. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)

外部リンク 編集