河上 君榮(かわかみ きみえ、1907年1月30日 - 没年不詳)は、日本の女優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13]。新漢字表記河上 君栄[1][6][7][8][11][13]。本名川上 高江(かわかみ たかえ)[1][2][3][5]、旧芸名光村 貴美子(みつむら きみこ、光村 きみ子とも)[7][8][12][14]河上 君江河上 君枝と表記されることもある[7][8][10][11][13]

かわかみ きみえ
河上 君榮
河上 君榮
1933年の写真。
本名 川上 高江 (かわかみ たかえ)
別名義 光村 貴美子 (みつむら きみこ)
光村 きみ子
河上 君江
河上 君枝
生年月日 (1907-01-30) 1907年1月30日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 愛媛県松山市
身長 169.7cm
職業 女優
ジャンル 劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1925年 - 1959年
主な作品
萬花地獄
テンプレートを表示

人物・来歴

編集

1907年明治40年)1月30日愛媛県松山市に生まれる[1][2][3][4][5][6]

同市内にある旧制・松山市裁縫女学校を卒業するとともに京都に移り、満17歳となった1924年(大正13年)7月、日活大将軍撮影所に置かれた関根達発の研究所の研究生として入社する[1][2][3][4][5]。「光村 貴美子」の名で脇役出演を始め、満18歳になった1925年(大正14年)11月12日に公開された『愛国の血刃』(監督高橋寿康)に出演して、認められるようになり、1926年(大正15年)4月1日に公開された『実録忠臣蔵 天の巻 地の巻 人の巻』(監督池田富保)では大野群右衛門の妻に抜擢されたが、端役が続き、同年9月には同社を退社、同年10月1日、関根達発の紹介により牧野省三マキノ・プロダクションに移籍、「河上 君榮」と改名し、関根主演の『勝てば官軍』(監督富沢進郎)で相手役に抜擢されて再デビューを果たした[1][2][3][4][5][7]

1929年(昭和4年)7月25日には、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、河上は、マキノ智子松浦築枝岡島艶子大林梅子生野初子櫻木梅子三保松子泉清子都賀静子北岡よし江住乃江田鶴子別所ます江らとともに「俳優部女優」に名を連ねた[15]。1930年(昭和5年)3月14日・4月4日にそれぞれ公開された『日本巌窟王 前篇』『日本巌窟王 後篇』(監督中島宝三)に出演したのを最後に同社を退社、松竹下加茂撮影所に移籍した[7][8]。やがてサイレント映画の時代は終わるが、河上は、同撮影所でトーキーの時代を迎え、引き続き出演した[7][8]。『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』によれば、1933年(昭和8年)、満26歳のときには、身長5尺6寸(169.7センチメートル)の長身であり、体重12貫300匁(45.9キログラム)、趣味は日本舞踊裁縫生け花であると記されている[4]。戦前の出演記録は、1940年(昭和15年)8月8日に公開された『縁結び高田馬場』(監督小坂哲人)が最後である[7][8]

第二次世界大戦後も、松竹京都撮影所に所属し、もっぱら脇役・端役ではあるが、溝口健二伊藤大輔の作品に出演した[7][8][10][13]。満51歳になった1959年(昭和34年)2月10日に公開された『伝七捕物帖 女肌地獄』(監督酒井欣也)に出演して以降の記録がみられない[7][8][10][13]。以降の消息も不明である。没年不詳

フィルモグラフィ

編集
 
敵討加賀見山』(1929年)公開時のチラシ、「河上君江」の名が確認できる。図柄はマキノ智子

クレジットはすべて「出演」である[7][8]。公開日の右側には役名[7][8]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[13][16]。同センターなどに所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

日活大将軍撮影所

編集

すべて製作は「日活大将軍撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画、特筆以外すべて「光村貴美子」名義である[7][8][12]

マキノプロダクション御室撮影所

編集

すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、特筆以外すべてサイレント映画、特筆以外は「河上君榮」(河上君栄)の表記である[7][8]

松竹下加茂撮影所

編集

特筆以外はすべて製作は「松竹下加茂撮影所」、配給は「松竹キネマ」、特筆以外はすべてサイレント映画、特筆以外は「河上君榮」(河上君栄)の表記である[7][8]

松竹京都撮影所

編集

製作は「松竹京都撮影所」、配給は「松竹」、すべてトーキーである[7][8][10]

  • 歌麿をめぐる五人の女』 : 監督溝口健二、1946年12月15日公開 - 松波太夫 (「河上君枝」表記)、95分尺で現存(NFC所蔵[13]
  • わが恋は燃えぬ』(『我が戀は燃えぬ』[13]) : 監督溝口健二、1949年2月15日公開 - 女囚、84分尺で現存(NFC所蔵[13]
  • 乙女の性典』 : 監督大庭秀雄、1950年3月19日公開 - 女教師A (「河上君江」表記)
  • 帰郷』(『歸郷』[13]) : 監督大庭秀雄、1950年11月25日公開 - 役名不明、105分尺で現存(NFC所蔵[13]
  • おぼろ駕籠』 : 監督伊藤大輔、1951年1月15日公開 - 子規庵仲居、97分尺で現存(NFC所蔵[13]
  • 大江戸五人男』 : 監督伊藤大輔、1951年11月22日公開 - 桟敷の腰元、132分尺で現存(NFC所蔵[13]
  • 治郎吉格子』 : 監督伊藤大輔、1952年2月22日公開 - お組、100分尺で現存(NFC所蔵[13]
  • 流転』(『流轉』[13]) : 監督大曾根辰夫、1956年4月25日公開 - 笹屋の仲居、94分尺で現存(NFC所蔵[13]
  • 伝七捕物帖 女肌地獄』 : 監督酒井欣也、1959年2月10日公開 - 仲人 (「河上君江」表記)

脚注

編集
  1. ^ a b c d e f g h i j キネマ旬報[1980], p.5.
  2. ^ a b c d e 映画世界社[1928], p.45.
  3. ^ a b c d e 映画世界社[1929], p.54.
  4. ^ a b c d e 蒲田[1933], p.28.
  5. ^ a b c d e 映画世界社[1934], p.62.
  6. ^ a b c 河上君栄jlogos.com, エア、2013年5月14日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 河上君江光村貴美子光村きみ子日本映画データベース、2013年5月14日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 河上君栄河上君江光村貴美子、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月14日閲覧。
  9. ^ 河上君栄日本映画製作者連盟、2013年5月14日閲覧。
  10. ^ a b c d e 河上君江KINENOTE, 2013年5月14日閲覧。
  11. ^ a b c 河上君栄光村貴美子光村きみ子allcinema, 2013年5月14日閲覧。
  12. ^ a b c 光村貴美子光村きみ子日活データベース、2013年5月14日閲覧。
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 河上君榮河上君栄河上君江河上君枝東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月14日閲覧。
  14. ^ 映画俳優事典 戦前日本篇国立国会図書館、2013年5月14日閲覧。
  15. ^ 1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録立命館大学、2013年5月14日閲覧。
  16. ^ a b c 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年5月14日閲覧。
  17. ^ 忠魂義烈 實録忠臣蔵、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月14日閲覧。
  18. ^ a b 浪人街 第二話 樂屋風呂、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月14日閲覧。
  19. ^ 京橋映画小劇場No.5 市川右太衛門 まぼろし峠 東京篇、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月14日閲覧。
  20. ^ a b 日本映画の発見II トーキーの開始と戦前の黄金時代、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月14日閲覧。

参考文献

編集
  • 『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』、映画世界社、1928年発行
  • 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』、映画世界社、1929年発行
  • 『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』、『蒲田』第12巻第5号別冊付録、蒲田雑誌社、1933年5月1日
  • 『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』、映画世界社、1934年発行
  • 『日本映画俳優全集・女優編』、キネマ旬報社、1980年12月31日
  • 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年11月 ISBN 4816915133

関連項目

編集

外部リンク

編集