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洛中

  1. 中国洛陽城の京域内のこと。
  2. 転じて、日本平安京の京域内のこと。本項で詳述。
  3. 京都市立洛北中学校の略称。

洛中(らくちゅう)とは、平安京の京域内のこと。平安時代に文学上の雅称として平安京を「洛陽」と呼んだことから派生した言葉で、その示す範囲は時代ごとに違いがある。また、公・官・民、それぞれの立場からも認識の違いがみられる。洛中に対して、洛中に続く外縁地域を洛外と呼んだ。

目次

平安時代の「洛」=「洛陽」と「長安」編集

古くは平安京域内を指して「京中」と呼んだが、鎌倉初期から京中に代わって「洛中」の語が頻出するようになる[1]。この「洛」は「洛陽」の一字を採ったもので[2]、後の京都の基礎となった左京[3]を中国の都「洛陽」に擬え、対して、右京(朱雀大路から西側の部分)を同じく「長安」と呼んだとされ、後に右京が廃れたことから、市内(実質的に左京)を洛中(らくちゅう)、外側を辺土、後に洛外(らくがい)と呼ぶようになったされる。洛陽、長安を左京、右京に分けて使ったとする説は、今のところ平安遷都から500年余経た鎌倉時代末期(?)に洞院公賢(1291~1360)によって書かれた『拾芥抄』の「京都坊名」の項に「東京号洛陽城、西京号長安城」と付記されているのが、最も古い[4][5]。「左京洛陽・右京長安」説はこれ以降さまざまの著書に引用され、そのことから「洛中とは左京のこと」との主張が生まれて、現在ではあたかも定説になった感がある。

これに対し、平安時代の文献からの疑問もある[6]。平安時代の文学では左京右京を問わず平安京を「洛陽」あるいは「長安城」と呼んでおり、例えば平安初中期の詩文(「本朝文粋」「和漢朗詠集」など)に「洛陽」「長安城」あるいは「洛城」と現れるが、一つの詩文の中に「洛陽」と「長安」が併記される例は見当たらないからそれらがそれぞれ左京と右京を指したとは言えず、「城」をつけて呼んだところを見れば、共に「平安城」に代わる文学上の雅称として(つまり共に平安京全体を指す言葉として)使われたとするほうが自然である。また遷都後間もなく洛陽と長安の坊名を借りて名付けられたと考えられている「銅駝坊」「教業坊」「陶化坊」などの坊名[7]も、必ずしも「左京は洛陽」「右京は長安」を示していない[8]。その後も「左京を洛陽、右京を長安」と称した事実は平安期の文献では確認できないから、洛陽・長安の区別は少し後、すでに「洛中」や「入洛」などの語が成立していた鎌倉時代以降のことと考えられる[9]。また「小右記」長和4年(1016)6月25日条では西京(右京)を「西洛」とも呼んでおり、やはりここでも右京を含めた平安京全体を指して洛陽と呼んだことが伺える。平安末期の辞典『色葉字類抄』では「洛 ラク 又作雒 京也」と「洛とは京」と明確に定義付けるし、享徳3年(1454)の奥書を持つ『撮攘集』にも都の異名を並べて「京城 都 皇州 京帥 洛陽 長安 禁城 帝畿」と洛陽・長安ともに都の意と記す。都を指して「洛陽」という言い方は早くから定着していたが、のちに右京が廃れたことにより都の範囲が狭まり、実質的に「京都(洛陽)=左京」という状態になっていたから、対して詩文に現れた「長安」を右京に付会して、上記「拾芥抄」の「左京洛陽・右京長安」説が成立したとも考えられる。この考え方に立つと「洛中」が必ずしも左京域のみを指した語でなかったことになる[10]

以上平安時代の諸文献に基けば、一般に信じられる「平安初期に(施政者により)右京は長安、左京は洛陽と名付けられた」という説は真実とは言えず、鎌倉末期以降唱えられ、江戸時代に広く流布した説と考えられる。したがって平安時代には、「洛陽」とは実質的にはどうあれ都全域指す呼称であって、それを語源とする「洛中」という言葉も左京に限らぬ都全域を指した言葉であったとすべきであろう。

中世京都の「洛中」と「洛外」編集

平安時代には京中(洛中)は京職検非違使の管轄であるが、辺土(洛外)は山城国府の管轄と考えられていた。鴨長明の『方丈記』の養和の飢饉に関する件には、「京ノウチ」を「一条ヨリハ南、九条ヨリハ北、京極ヨリハ西、朱雀ヨリハ東」と記し、続いて「辺地(へんぢ=辺土)」として白河や「河原」(鴨川河川敷)とともに「西ノ京(西京、かつての右京地域)」を挙げている。辺土のうち、鴨川の東を河東と呼称し、白河や六波羅などがこれに該当した。『吉記治承4年11月30日1180年12月18日)条によれば、安徳天皇平清盛六波羅第に滞在中の高倉上皇の元に行幸しようとした際に、記主の吉田経房が辺土への行幸に神鏡を持ち出す事に異論を唱えている。鎌倉幕府が六波羅に六波羅探題を設置したのも、平家滅亡後に、京都における北条氏の邸宅が置かれていたこともあるが、検断権を巡る検非違使との直接的な衝突を避けたことも理由に挙げられる。後に河東は六波羅探題の異称にもなった。正応元年6月10日1288年7月9日)の伏見天皇による殺生禁止の宣旨には、宣旨を適用する洛中の外側を「近境」と表現して、東は東山の下、南を赤江(現在の伏見区羽束師古川町)、西を桂川の東、北を賀茂の山と定めている。鎌倉時代末期の朝廷や室町幕府酒屋役を「洛中辺土」に課しており、応仁の乱の頃から辺土に替わって洛外という語が一般的になる。

近世の洛中洛外と「御土居」編集

安土桃山時代になり豊臣秀吉が政権をとると、上京と下京を分かっていたそれぞれの構えを撤去し代わって「洛中惣構え」として御土居を構築した。これには打ち続く戦乱でその境界が定かでなくなっていた「洛中」の範囲を新たに定める狙いもあったとされる。慶長年間に前田玄以の求めに応じて旧室町幕府の吏僚が編んだとされる『室町殿日記』には、秀吉の「洛中とは」という下問に対し細川幽斎が「東は京極迄、西は朱雀迄、北は鴨口、南は九条までを九重の都と号せり。されば内裏は代々少しづつ替ると申せども、さだめおかるる洛中洛外の境は聊かも違うことなし。油小路より東を左近、西を右近と申、右京は長安、左京は洛陽と号之。(中略)この京いつとなく衰え申、(中略)ややもすれば修羅の巷となるにつけて、一切の売人都鄙の到来無きによりて自ずから零落すと聞え申候」と答えたとある。この幽斎の返答を聞いた秀吉は「さあらば先ず洛中洛外を定むべし」と諸大名に命じ惣土堤(御土居)を築かせたという。つまり荒れ果てた京都を復興するためまずその範囲を定めようと御土居を建設したことになる。このことにより以後「御土居に囲まれた内側が洛中」という定義が一般化したものと考えられる。ただここで留意すべきは、幽斎は「九重の都」の範囲を「東は京極迄、西は朱雀迄」と誤まりつつも、左京と右京と含めて「さだめおかるる洛中洛外の境は聊かも違うことなし。」と言いきっていることで、当時の一部知識人の間では「平安京の京域内が洛中」という認識がなお存在していたことを示している。

1634年江戸幕府将軍徳川家光上洛を機に洛中全域と洛外の一部に地子免除が認められた。1669年京都町奉行の設置を機に、門跡寺院を除く寺社の管轄が町奉行となり、直後に始まった鴨川の堤防設置工事が完成(1670年)して洛中と洛外を区切る自然条件が大きく変化することによってそれまでの鴨川の西河原が市街化し、同時に「鴨東」と称される鴨川東岸にも市街が広がり「洛中洛外町続」と呼ばれる都市の拡大のきっかけになった。地誌『京町鑑』(宝暦12年・1762年上梓)には「今洛中とは、東は縄手(現大和大路)、西は千本、北は鞍馬口、南は九条まで、其余鴨川西南は伏見堺迄を洛外と云」とある。一方で、京都の施政の一端を担った中井役所が寛永年間に作製した「洛中絵図」には御土居の内側のみが描かれており、幕府の行政区としての「洛中」はあくまで「御土居に囲まれた内側」に限られていたとも考えられる。町奉行は町の拡大を抑制する方針を採ったが、実際には都市の拡大が先行して町奉行及び新しい町割の是非を審査する新地掛の与力がこれを追認する状況が幕末まで続いた。この洛外にまで広がった上京と下京が近代以後の京都市の基礎となっていくことになる。

明治維新後の洛中 市民の京都編集

明治になり京都市内に路面電車網が張り巡らされると市民の間にはそれら外郭線に取り囲まれた範囲、すなわち「北大路通東大路通九条通および西大路通の内側が洛中」という共通認識が生まれた[11]が、そうした認識も市電の消えた昭和50年代以降、次第に薄れ、現在市民の間で「洛中」が意識されることはほとんどない。

一方、伏見区や山科区など昭和になって京都市に編入された縁辺地区の住民の間では、今でも「京都に行く」「市内に出かける」という言い方がごく普通に使われる[12]。この「京都」も「市内」も中京や下京などの京都市中心市街を指すのだが、もとよりその指し示す範囲は明確でない。しかし「洛中」という語が姿を変えて現代に生きていると考えれば極めて興味深い。つまるところ「洛中」あるいは「京中」という語は、その範囲が不明瞭なまま、その時代ごとの共通認識として受け継がれてきた語だと言える。

脚注編集

  1. ^ 鎌倉初期に成立したと見られる平家物語では圧倒的に「京中」が使われ「洛中」の語はほとんど見られない。対して「入京」「帰京」は全く見られず「入洛」「帰洛」がごく普通に使われている。
  2. ^ すでに中国の詩文では「洛中」「洛下」や「洛城」など、洛の一字を以って洛陽を示す例があったからこれに倣ったものであろう。
  3. ^ ここでいう「左京」とは、現在の「左京区」の区域ではなく、平安京の中心である朱雀大路(現在の千本通)の東側、東京極大路(現在の寺町通)までの範囲を指す。同じく「右京」も朱雀大路の西側から西京極大路までの区域を指した。平安初期には、左京・右京をそれぞれ「東京」・「西京」と呼んだ。
  4. ^ 洞院公賢はその出典を明らかにしていないが、「洛陽城」「長安城」としているところをみると、本朝文粋などに現れた「洛城」「長安城」にヒントを得た可能性も考えられる。また中国では、洛陽を東京、長安を西京と呼んだから(「洛陽称東京、長安称西京」)、これをそのまま平安京の「東京(左京)」「西京(右京)」に当てはめた可能性もある。
  5. ^ 史家村井康彦はさまざまな著書で「左京を洛陽、右京を長安と名付けたのは唐風文化一辺倒であった嵯峨天皇の時だろう」と書いているが、その根拠を示さない。
  6. ^ 五島那治・加藤繁生ら説。五島説は『平安時代史事典』(1996・角川書店)「洛中」の項にある。五島はそこでまず冒頭に「『洛』は『洛陽』即ち京都の意味で、『洛中』は漠然とした京内をいう言葉」と定義づけている。加藤説は「『京都検定』を検定する―平安京の『洛陽』と『長安』」(『史迹と美術』868号所収)に見え、そこで加藤は詳細にこの問題を追及している。
  7. ^ これら坊名は嵯峨天皇により宮城の門の名が和風から唐風に変えられた弘仁9年に、同時に命名されたと考えられているが(村井康彦ら説)、そのことは史書などに現れない。
  8. ^ 例えば、左京の「崇仁坊」「永昌坊」などは長安城から、右京の「豊財坊」「毓財坊」は洛陽城から採用している。
  9. ^ しばしば慶滋保胤が『池亭記』において左京を指して「洛陽城」と書いたとされるが、対して長安の名は文中に見えないから洛陽城をもって京域全体を指していたとも解せられる。
  10. ^ 長安という呼び名が廃れたのは、「長」も「安」も日本では多用される文字であったため「洛」のように一字で洛陽すなわち京都を意味することができなかったためと考えられる(たとえば「上洛」はすぐ理解できるが、「上」「上」では言語としての明晰性に欠ける)。中国でも事情は同様であったと見え、2で述べたように洛の一字を以って洛陽を示すことはあったが、長あるいは安の一字を以って長安を示す例は見当たらない。「長城」という語は見られるがこれは「長安城」の略ではなく「万里の長城」のことであった。
  11. ^ 例えば「京都市電物語」(京都新聞・1970)には「京都人の洛中洛外意識と関連深い外郭線」という記述が見られる。
  12. ^ 例えば「伏見学ことはじめ」(京都新聞・1999)には「伏見に古くから住んでいる人たちは、今でも三条四条あたりに買物などに出るとき、『京都ニ行ッテクルシナ』などということがある」と記す。

関連項目編集