津田 三蔵(つだ さんぞう、安政元年12月29日1855年2月15日) - 明治24年(1891年9月29日)は、明治時代の日本軍人警察官大津事件の犯人として知られる。

津田三蔵
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西南戦争前後、陸軍伍長時代の津田
生誕 安政元年12月29日
1855年2月15日
日本の旗 日本 武蔵国豊島郡下谷(現•東京都台東区
死没 1891年9月29日
日本の旗 日本 北海道標茶町、釧路集治監
職業 日本陸軍歩兵軍曹
滋賀県警察部巡査
罪名 謀殺未遂罪(旧刑法292条)
刑罰 無期徒刑
有罪判決 1891年5月27日

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略歴編集

津田氏は藤堂氏藩医として仕えた家柄で、家禄は130石であった。父は津田長庵、母はきの。三蔵は次男で、兄の養順は家出をして行方不明、弟の千代吉は憲兵を経て三吉電気工場の職工となる。妹が一人おり、町田義純へと嫁いだ。津田氏は江戸下谷柳原(現在の東京都台東区)に居住していたが、三蔵が7、8歳の頃、長庵が刃傷沙汰を起こし、減封処分の上伊賀上野へ転居、生涯蟄居の身となった[1]

明治3年に上京、東京鎮台に入営。明治5年3月、陸軍名古屋鎮台に転ず。翌明治6年3月、越前護法大一揆鎮圧のため乃木希典少佐の部下として出動した[2]。7月、金沢分営に転属。

明治10年(1877年)の西南戦争勃発時は金沢歩兵第7連隊第1大隊附の伍長であった。3月11日、第7連隊は高島鞆之助率いる別働第一旅団に編入され、3月20日、西郷軍の背面、日奈久(現八代市)に上陸するが、同月26日、左手に銃創を負い熊本の八代繃帯所に入院。長崎に移され5月20日に退院後、鹿児島の本隊に復帰し、6月1日より歩兵第1連隊第1大隊長古川氏潔少佐附書記となり、鹿児島、宮崎を転戦。その間軍曹に昇進した。10月22日、金沢に帰還。

戦後の明治11年、戦闘での疲れからかたびたび病に陥り入退院を繰り返していたが、そのさなかの10月9日、功績が認められ勲章勲七等)を授与された。明治15年1月9日、陸軍を退役し、同年3月15日、三重県警巡査となり松阪署に勤務した。明治18年、親睦会で不和となっていた同僚に暴力をふるい免職となる。12月、滋賀県警に採用される[2]。滋賀における勤務は勤勉で、功労褒章を2度受賞している[3]。私生活では、岡本瀬兵衛の娘亀雄と結婚し、長男元尚、長女みつの二児を得た[4]

明治24年(1891年)、来日中のロシア帝国皇太子ニコライが滋賀を経由するため、守山警察署より応援に派遣される巡査の一人に抜擢される。5月11日、皇太子の通る沿道警備の現場において、皇太子をサーベルで斬りつけ、負傷させた(大津事件)。

犯行の動機を裏付ける供述は得られておらず諸説ある。ロシアの日本への強硬な態度に不満を持っていたからともいわれ、「一本(一太刀)献上したまで」という意味の供述をしたため、斬りつけはしたが、殺意はなかったともいわれる。津田には精神病歴があった。

事件後津田は、巡査を免職されると同時に先述の勲章も剥奪された。そして無期徒刑判決を受け、7月2日、北海道標茶町にあった釧路集治監に移送・収監されたが、身体衰弱につき、普通の労役ではなく藁工に従事していた。同年9月29日急性肺炎を発病し、翌30日未明に獄死した[5]

旭川刑務所に標茶分監医務所長の詳細な日記が残されている。

脚注編集

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  1. ^ 尾佐竹, p. 248.
  2. ^ a b 中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、165頁
  3. ^ 尾佐竹, p. 250.
  4. ^ 尾佐竹, p. 252.
  5. ^ 尾佐竹, p. 251.

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集