瀧井治三郎
2代[1] 瀧井 治三郎(滝井、たきい じさぶろう、1890年(明治23年)5月19日[1][2] - 1973年(昭和48年)12月11日[2][3])は、明治から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。幼名は虎三[1]。タキイ種苗社長。(同社の会社概要では3代目瀧井治三郎)[4]
経歴
編集京都府[3]京都市下京区猪熊通梅小路上ル南夷町で[1]、農業、種苗業「大森屋」を営む先代・瀧井治三郎の三男として生まれる[1]。梅逕尋常小学校を経て[1]、1908年(明治41年)京都府商業学校[注釈 1]予科1年在学中に父が死去し[5]、種苗業を廃業することを決めたが取引先の懇請により営業継続となり[6]、商業学校を中退して2代・治三郎を襲名した[1][2][5](タキイ種苗の会社概要では1906年に3代目治三郎を襲名、『人事興信録』でも家督相続と襲名は1906年としている)[4][7]。
種苗の技術、知識を祖母ツネ(つね)から習得し[1][8]、行商、肥取りを自ら行い次第に事業を拡大した[1][9]。1917年(大正6年)瀧井治三郎商店を株式会社とし[10]、1926年(大正15年)社名をタキイ種苗に改称した[2]。その他、タキイ農薬工業社長、大東紙業社長、大日本種苗協会理事、京都府種苗配給統制組合理事長、日本種苗生産業協会長、京都府種苗協会長、日本開拓協会理事、京都貿易協会理事、京都商工会議所議員、同理事などを務めた[1][3]。
1942年(昭和17年)7月、下京区の補欠選挙で京都府会議員に当選し、参事会員などを務めて1945(昭和20年)8月に辞任し、1947年(昭和22年)4月に再選され、建築委員長、農地委員などを務めた[1]。1950年(昭和25年)5月、京都府議会議員を辞職し、同年6月の第2回参議院議員通常選挙に全国区から自由党公認で出馬して当選し[1][3][11]、参議院議員に1期在任した[3]。この間、参議院逓信委員長、同院自由民主党総務などを務めた[1][3]。その後、第4回通常選挙に全国区から自民党公認で立候補したが落選した[12]。
また、学術雑誌『育種と農芸』を刊行して学術方面での援助を行った[2]。
家族
編集著作
編集- 『種苗五十年』タキイ種苗出版部、1952年。
- 『種苗七十年』タキイ種苗出版部、1964年。
脚注
編集注釈
編集- ^ 京都市立第一商業学校を経て現京都市立西京高等学校・附属中学校
出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m 『京都府議会歴代議員録』363-364頁。
- ^ a b c d e 『現代日本朝日人物事典』954-955頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』349頁。
- ^ a b 会社概要タキイ種苗
- ^ a b 『叩き上げた人々』26頁。
- ^ 『叩き上げた人々』26-29頁。
- ^ a b c d e 瀧井治三郎『人事興信録 第13版 下』1941
- ^ 『叩き上げた人々』36-38頁。
- ^ 『叩き上げた人々』33-36頁。
- ^ 『叩き上げた人々』36頁。
- ^ 『国政選挙総覧:1947-2016』540頁。
- ^ 『国政選挙総覧:1947-2016』546頁。
- ^ 『官報』第11513号14頁 昭和40年4月30日号
- ^ 『官報』第14094号12-13頁 昭和48年12月18日号
- ^ a b 『日本の地方財閥30家』菊地浩之、平凡社, 2012/02/15「京都府/島津源蔵家系図」
参考文献
編集- 実業之日本社編『叩き上げた人々:新しい仕事はどこにでもある』実業之日本社、1955年。
- 京都府議会事務局編『京都府議会歴代議員録』京都府議会、1961年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 朝日新聞社編『現代日本朝日人物事典』朝日新聞社、2003年。
- 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
外部リンク
編集- タキイ種苗株式会社 ※2020年10月23日閲覧
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