ハリー・ダクレ(Harry Dacre)ことフランク・ディーン(Frank Dean、1857年9月 - 1922年7月16日[1][2][3]は、イギリスの作詞作曲家である。代表作は『デイジー・ベル』である。

ハリー・ダクレ
原語名 Harry Dacre
出生名 Frank Dean
別名 Henry Decker
生誕 1857年9月6日(洗礼日)
マン島
死没

1922年7月16日(1922-07-16)

(64歳)
ロンドン
職業 ソングライター、音楽出版者

生涯 編集

ディーンはマン島で生まれ、1857年9月6日に洗礼を受けた。マンチェスターに移り住んだ後、1882年頃にランカシャー州プレストンに移り住んだ。彼は作詞作曲で身を立てることを決意し、ハリー・ダクレやヘンリー・デッカー(Henry Decker)というペンネームを使った(いくつかの情報源では、後者を彼の生名としている)[4]。最初の2年間で約600曲を発表したと彼自身は後に主張しているが、最初に成功したのは"The Ghost of Benjamin Binns"(ベンジャミン・ビンスの幽霊)という曲だった。この曲は、1885年ブライトンミュージックホール歌手のハリー・ランドール英語版が初めて歌った。作曲活動のストレスが健康に影響しているとして、オーストラリアに4年間滞在した。一旦イギリスに戻った後、1891年にアメリカに向けて出発した[3]

彼が渡米した時、持ち込んだ自転車に対する関税を支払う必要があった。彼の友人のウィリアム・ジェローム英語版は、「二人乗りの自転車(bicycle built for two)を持って来なくて良かったな。関税が2倍になるところだった」と言った[5]。ダクレは「二人乗りの自転車」というフレーズを気に入り、すでに原型を作っていた『デイジー・ベル』にこのフレーズを織り込んだ。ニューヨークに滞在中の1892年、ロンドンのミュージックホールで公演するケイティー・ローレンス英語版に、この曲を歌うよう依頼した。この曲はすぐにロンドンのミュージックホールで人気を博し、さらに世界的なヒット曲となった[3][4]

ダクレはロンドンに戻り、1895年に自身の出版社、フランク・ディーン社(Frank Dean and Co.)を立ち上げた[3]。その後も曲を作り続け、"Katie O'Connor"(1891年)、"I Can't Think of Nuthin' Else But You, Lulu"(1896年)、リル・ホーソーン英語版の歌唱で人気を博した"I'll Be Your Sweetheart"(1899年)などのヒット曲を出した[3][4]。法律では楽譜海賊版を防ぐことができないことに気づいて、数年間音楽業界から撤退したが、T・P・オコナー英語版の提案による「音楽著作権法」(Musical Copyright Act)が1906年に成立したことで業界に復帰した[3]

晩年はロンドンのランガムプレイス英語版に居を構え、そこで1922年に死去した[3]

脚注 編集

  1. ^ Fuller v The Blackpool Winter Gardens Company and Holland, Court of Appeal, June 1895
  2. ^ The Times, 21 July 1922, page 7
  3. ^ a b c d e f g Baker, Richard Anthony (2014). British Music Hall: An Illustrated History. Pen and Sword. p. 133-135. ISBN 978-1-78383-118-0. https://books.google.com/books?id=ruWwBAAAQBAJ&pg=PA133 
  4. ^ a b c Gammond, Peter (1991). The Oxford Companion to Popular Music. Oxford: Oxford University Press. pp. 142. ISBN 0-19-311323-6. https://archive.org/details/oxfordcompaniont00gamm/page/142 
  5. ^ Ewen, David (1966). American Popular Songs. Random House. ISBN 0-394-41705-4. https://archive.org/details/americanpopulars0000ewen