オルタモント・フリーコンサート

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オルタモント・フリーコンサート英語: Altamont Free Concert)は、1969年12月6日 (1969-12-06)カリフォルニア州トレイシー郊外にあるオルタモント・スピードウェイ英語版で開催された、ローリング・ストーンズ主催のコンサート

演奏中に観客が殺害される事件が起こり、『オルタモントの悲劇』の別名でも知られている。

概要 編集

ストーンズのアメリカツアーの最終日に行われた、ツアー中でも最大規模の野外フリーコンサート。ローリング・ストーンズからのクリスマスプレゼントとして開催されたもので入場料金は無料とされた。集客人数は20万人から50万人とも言われている[1]。出演者はストーンズの他、サンタナフライング・ブリトー・ブラザーズジェファーソン・エアプレインクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングがいた。開催の決定から日数が少なく、また会場が開催日の前日に決定した事もあり、あらゆる面で準備不足だったイベントは混乱を極めた。そしてコンサートの警備業務を暴力団であるヘルズ・エンジェルスに委託した挙げ句、観客がメンバーに殺害されるという最悪の事態を引き起こし、他にも様々な混乱が起きて計4人の死者が出る惨事となった。ウッドストック・フェスティバルと並び、ロックの歴史に名を残す重大なイベントとなった[2]

コンサートの模様は映画用に撮影されており、事件からちょうど1年後の1970年12月6日に『ギミー・シェルター英語版』のタイトルで上映された[2]

解説 編集

開催まで 編集

ストーンズ6度目のアメリカツアーは、1969年11月7日、コロラド州フォート・コリンズの州立大学でのコンサートからスタートした。同月26日、バンドは記者会見で、ツアー最終日の12月6日に、アメリカのファンへの感謝の印として、サンフランシスコで野外でのフリーコンサートを行う事を発表した。フリーコンサートとしたのには、同月8日のロサンゼルス公演で、ストーンズはビートルズの記録を超える収益を上げたことに、地元のマスコミから中傷された事に対抗する意味合いもあった[2][3][4][5]

だが十分な計画もないままの決定だっただけに、会場の選定は困難を極めた。当初予定していた会場からは拒否され、やっとサンフランシスコ・シアーにあるポイント・レイストラックに決定したと思いきや、会場のオーナーが直前になって断ってきた。予定日直前に、オルタモント・スピードウェイのオーナー、ディック・カーターが、ただで宣伝してもらう代わりに会場を提供すると申し出てきた事により、ようやく開催地が決定した[2][3][4]

会場の警備係として、アメリカのバイク集団ヘルズ・エンジェルスを雇うことがプロモーターのロッキー・スカリーから提案された。同年7月に行われたハイドパーク・フリーコンサートでもエンジェルスは警備係を務め、その時のショーをトラブルなく遂行させた事からストーンズもこれに同意し、タンクローリー1台分のビールでエンジェルスを雇う事にした[2][3][4]

前日の12月5日、ラジオ局からオルタモントでの開催の告知が行われた。突然の予告は会場付近に大規模な交通渋滞を引き起こした[2][3][4]

当日 編集

コンサート当日は、開催前から不穏な空気が流れていた。急転直下で開催場所が決まったイベントは十分に組織されておらず、セキュリティも万全ではなかった。麻薬中毒と思われる者らが多数会場に入り込み、会場内ではLSDなどのドラッグが公然と配られた[6]。秩序はたちまち崩壊、会場のあちこちで事件が起き、用意された医師の数では対処しきれなかった。ストーンズのメンバーは午後になってからヘリコプターで会場入りしたが、ミック・ジャガーは徒歩で移動中、錯乱状態にあった観客から顔面を殴られた。

コンサートが始まると、観客は落ち着くどころかさらに暴徒化し、アーティスト側はまともに演奏できる状態ではなかった。警護する側のヘルズ・エンジェルスは、暴力に訴えてこれをねじ伏せようとした。メンバーが観客を棒で叩きのめしているのが映像にも残されている。ジェファーソン・エアプレインの演奏中、観客の喧嘩を仲裁しようとステージから飛び降りたマーティ・バリンがエンジェルスの一人から殴られて卒倒失神する傷害事件も起き、会場はますます混沌とした状況になっていった[4]。あまりの混乱振りに、出演予定だったグレイトフル・デッドは当日になって出演を取りやめた。映画『ギミー・シェルター』の映像には、メンバーのジェリー・ガルシアの姿が写されている[4]

殺害事件 編集

ヘッドライナーのストーンズは、日没後になってようやく登場した。ストーンズはこのツアーからわざと開演時間を過ぎても登場せず、観客を焦らしてからステージに上がるというやり方をしており(これは2015年現在も続けられている)、ただでさえ理性を失った群集を余計に苛立たせた。ストーンズがステージに上がった時、観客はステージの周りを取り囲む状態になっていた。「悪魔を憐れむ歌」の演奏中、ステージのすぐ前で観客とエンジェルスが衝突し、演奏は中断された。ジャガーは必死に観客をなだめたが、もはや制御不能な状態にあった聴衆の前では無駄な努力に過ぎなかった。しばらくして演奏は再開されたが、混乱はなおも続いた。なお、「悪魔を憐れむ歌」の演奏中に殺害事件が起きたという文献もあるが、事実ではない[4][7]

事件は「アンダー・マイ・サム」の演奏が終わりに差し掛かった時に起きた。観客の一人だった18歳の黒人青年メレディス・ハンター英語版がエンジェルスと乱闘を起こし、エンジェルスのメンバー、アラン・パサーロにナイフで刺殺された。事件はステージからさほど遠くない場所で起きたが、ストーンズのメンバーは他の混乱に気を取られてその時には気づかず、後になって知らされたという。パサーロはハンターが拳銃を持っていた事から殺害に及んだ事を主張した。この場面は映像にも映されており、実際にハンターが手に拳銃のような黒い物体を持っているところも確認されている。だがその後拳銃は見つからなかった。ショーはその後も続けられ、終了後、メンバーはすぐにヘリコプターで会場を後にした[4][7]

この事件以外にも、二人の若者が暗闇の中で寝転んでいて自動車に轢かれて死亡、また麻薬の影響下にあったと見られる者が警察官に追われ、用水路に落ちて死亡した。このイベントの死者はこれで4人となった。さらに、4件の出産も報告されている[4][7]

ハンターを刺殺したパサーロは、その後の裁判正当防衛が認められ、無罪となった。また、エンジェルスを雇う事を提案したロック・スカリーは「契約にサインしたのはストーンズだ。当然の報いさ」と自らの責任を放棄する発言をした[4][7]

事件の影響 編集

コンサート中に観客が殺害されるという衝撃的な事件は、すぐさま各メディアによって大きく報じられた。ローリング・ストーン誌は1970年1月21日付けの記事で、オルタモントの悲劇の詳細を報じた[8]。同誌はこのイベントについて「ロックンロールにとって最悪の日」と綴っている[9]

オルタモントの悲劇は、これより4ヶ月前に行われたウッドストック・フェスティバルと対比した上でしばしば語られる。愛と平和の祭典と謳われたウッドストックに対し、オルタモントはそれを終わらせた一つの時代の区切りである、というものである[10]。これに対しジャガーは1995年のインタビューで「俺はそういう事は一切考えなかった。それよりも、殺された被害者に責任を感じ、ヘルズ・エンジェルス共の振る舞いに対しひどいと感じた。ただそれだけさ」と語っている。またこの事件以降、「悪魔を憐れむ歌」が事件と関連付けられるようになり、「悪魔を…」を歌う事をその後躊躇したとも語っている[11]

この事件以降、ヘルズ・エンジェルスとストーンズ(とりわけミック・ジャガー)の関係は完全に悪化した。1983年、エンジェルスのメンバーがジャガーの暗殺計画を企てているという報道が出た。報道によれば、オルタモントでの事件の裁判で、ストーンズ側がエンジェルスの擁護を全くしなかった事を逆恨みし、すでに計画を実行したが、いずれも大事には至らなかったという[12]2008年には、BBCが元FBIの捜査官の話として、エンジェルスのメンバーがニューヨークロングアイランド湾にあるジャガー邸にボートで侵入しようとしたが、嵐に見舞われてボートが転覆しそうになり断念、それ以降は暗殺計画が二度と行われる事はなかった、と報じている[13]

ストーンズの当日のセットリスト 編集

ストーンズの当日のセットリストは次の通り[4][7]

  1. ジャンピン・ジャック・フラッシュ
  2. キャロル
  3. 悪魔を憐れむ歌
  4. ザ・サン・イズ・シャイニング
  5. ストレイ・キャット・ブルース
  6. むなしき愛
  7. アンダー・マイ・サム
  8. ブラウン・シュガー
  9. ミッドナイト・ランブラー
  10. リヴ・ウィズ・ミー
  11. ギミー・シェルター
  12. リトル・クイニー
  13. サティスファクション
  14. ホンキー・トンク・ウィメン
  15. ストリート・ファイティング・マン

脚注 編集

  1. ^ 青鉛筆『朝日新聞』昭和44年(1969年)12月8日朝刊、12版、15面
  2. ^ a b c d e f テリー, アンドリュー & キース 2000, p. 201.
  3. ^ a b c d テリー, アンドリュー & キース 2000, p. 200.
  4. ^ a b c d e f g h i j k テリー, アンドリュー & キース 2000, p. 202.
  5. ^ テリー, アンドリュー & キース 2000, p. 198.
  6. ^ 青鉛筆『朝日新聞』1969年(昭和44年)12月8日朝刊 12版 15面
  7. ^ a b c d e テリー, アンドリュー & キース 2000, p. 203.
  8. ^ The Rolling Stones Disaster At Altamont”. ローリング・ストーン. 2015年6月11日閲覧。
  9. ^ Rock & Roll's Worst Day”. ローリング・ストーン. 2008年3月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月11日閲覧。
  10. ^ Less Peace, Less Love”. ハートフォード・クーラント. 2015年6月11日閲覧。
  11. ^ 「ロックの正義!!ストーンズ全100ページ」『SIGHT』WINTER VOL.14、ロッキング・オン、2003年、55頁。 
  12. ^ 『アーカイヴシリーズ Vol.5 ザ・ローリングストーンズ[’74-’03]』シンコー・ミュージック、2003年、61頁。ISBN 4401618017 
  13. ^ 69年のミック・ジャガー暗殺計画、嵐で中止に?”. AFPBB. 2015年6月11日閲覧。

参考文献 編集

  • テリー・ロウリングス、アンドリュー・ネイル、キース・バッドマン 著、筌尾正 訳『ローリングストーンズ/グッド・タイムズ・バッド・タイムズ』シンコーミュージック、2000年。ISBN 4401616545 

関連項目 編集