ミック・ジャガー

イギリスのミュージシャン、俳優

サーマイケル・フィリップ・ジャガー(Sir Michael Philip Jagger、1943年7月26日 - )は、イギリスのロック・ミュージシャン俳優、作曲家である。「ミック (Mick)」の愛称で知られる。イギリスのロックバンドローリング・ストーンズのボーカルとして各国で知られる。ストーンズのギタリストであるキース・リチャーズと「ジャガー/リチャーズ」の名義で数々のヒット曲を生み出した。1974年からキースと「グリマー・ツインズ[1]というプロデュース・ユニットを組みセルフ・プロデュースを行っている。

ミック・ジャガー
Mick Jagger
Mick Jagger Deauville 2014.jpg
2014年
基本情報
出生名 Michael Philip Jagger
生誕 (1943-07-26) 1943年7月26日(78歳)
出身地 イングランドの旗 イングランド
ケント州ダートフォード
ジャンル ロックンロール、ブルース・ロック、ブルース、レゲエ、ファンク、ブルー・アイド・ソウル
職業 歌手
シンガーソングライター
音楽プロデューサー
俳優
担当楽器 ボーカル
ハーモニカ
ギター
ベース
キーボード
パーカッション
活動期間 1962年 - 現在
共同作業者 ローリング・ストーンズ
公式サイト MickJagger.com

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」で第16位である。

人物編集

体育教師ジョー・ジャガー (1913 - 2006) とエヴァ・ジャガー (1913 - 2000) の息子として、ケント州ダートフォードで生まれる。母のエヴァは、イギリス保守党の活動的な党員だった[2]。家庭は上層中流[3]で、ミックは育ちが良く美しい英語を用い、ストーンズのブライアン・ジョーンズも中流階級の出身である。ミックは美術学校やロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学び、後にローリング・ストーンズギタリストとなるキース・リチャーズとは幼少期より顔見知りだが、互いに顔と名前を知る程度で友人ではない。10代でロックに目覚め、「リトル・ボーイ・ブルー・アンド・ザ・ブルー・ボーイズ」というバンドで活動した。18歳の頃にダートフォード駅キース・リチャーズと出会う。キースによれば、この時ミックはマディ・ウォーターズチャック・ベリーのレコードを持ち佇んでいた。このエピソードは疑問視する者もいる。憧れたマディ・ウォーターズと81年に共演している[4]。再会によりお互いがロックンロールR&Bに興味があることを知り、共に活動を始めるきっかけとなり、のちにローリング・ストーンズの活動へ繋がる。二人はその後ロンドンに移住し、1962年4月にブライアン・ジョーンズと出会い、スライド・ギター奏法に衝撃を受けた。彼らはバンドを結成して6月頃に初めてローリング・ストーンズと名乗り、ローリング・ストーンズのデビュー・シングル「Come On」は、1963年6月7日にリリースされプロ・デビューした。1968年からいくつかの映画に俳優として出演し、監督として映画を製作している。

ストーンズとしてデビュー以来、数十年間ロックの第一線で活動を続けた。元来、ブルースなどの黒人音楽から強い影響を受け、60年代から現在まで一貫して最新の機材や技術に加えて流行の音楽などにも敏感に反応し、ストーンズとソロ・ワークの両方で活用した。ブルース、ソウル、R&B、ファンク、レゲエ、ディスコなど、黒人音楽の流行に目配りしてストーンズのサウンドに取り入れた。ストーンズの曲は専らキース・リチャーズの作曲と見られているが、ミックが作曲した曲も存在する。ベースを強調した「悪魔を憐れむ歌」(1968) やディスコ・ビートを導入したがブルース・ロックの影響も強い「ミス・ユー」(1978)、などはジャガー/リチャーズ名義で登録されているが、キースのインタビューなどからミックのアイディアとされる[5]

奨学金を受けてロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに通っていたミックは、ストーンズとしてデビューした後もしばらくは、プロ・ミュージシャンになるか国税局に就職するか随分迷った。2010年現在、アメリカ合衆国の反捕鯨団体シーシェパードの後援者として名を連ねる[6]。実弟の クリス・ジャガーはローリング・ストーンズのアルバム「スティール・ホイールズ」のレコーディングに参加し、ソロアルバムを二枚リリースしている。

来歴、デビューから1979年まで編集

ストーンズのメイン作曲家であるキースとともに、「ジャガー/リチャーズ」として数多くの楽曲を生み出している。ミックらはブルースやR&Bのカバーを中心に録音していたが、ビートルズの大きな成功を目の当たりにして、成功するにはオリジナル楽曲の必要性をレコード会社から迫られていた。このため、当時のマネージャーであったアンドリュー・オールダムによって、キースとともにキッチンに閉じ込められた逸話もある。この時期にいくつか制作されたオリジナル楽曲に、「テル・ミー[7]や当時ミックの恋人であったマリアンヌ・フェイスフルへ提供してヒットし、自分たちで再度録音してヒットとした「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」などが含まれていた。その後、「サティスファクション」(1965) や「一人ぼっちの世界」、「黒くぬれ!」(1966) などの世界的なヒット曲を生み出していき、ジャガー/リチャーズレノン=マッカートニーに並ぶ新しいソングライティング・チームとして成長していった。その後も「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」「ホンキー・トンク・ウィメン」「ブラウン・シュガー」「ダイスをころがせ」「ハッピー」「悲しみのアンジー」「イッツ・オンリー・ロックンロール」「フール・トゥ・クライ」「ミス・ユー」などの優れた楽曲を発表した。78年にピーター・トッシュと共演した「ドント・ルック・バック」[8]が発表した。78年までは好調を維持したミックとストーンズだったが、80年に発表した「エモーショナル・レスキュー」は彼らの行き詰まりを感じさせ、不評だった。

俳優活動にも取り組み1968年5月映画出演が発表された。この映画『青春の罠』(Performance)は同年7月にクランク・インし、1970年に公開された。この作品は裁判のためにバンド活動ができなくなったミックがその機会に、かねてより興味のあった映画業界にも挑戦したいという意向の表れだった。以降ミックは映画業界で俳優、監督業にも手を伸ばすようになった。こうした経緯から同作のサウンドトラックに提供された楽曲「メモ・フロム・ターナー」は、ジャガー初のソロ・シングルとしてもリリースされた。続けて1969年の5月には映画『太陽の果てに青春を』(Ned Kelly)への出演を発表。7月にオーストラリアメルボルンでロケを行った。同作で彼は西部の殺し屋役を演じたが、映画の出来に関しては酷評している。また、ロケのため、同月のブライアンの死去に際して葬儀に行くことが出来なかった。彼はこのほかにも数々の映画に出演しているが、1997年の 『ベント/堕ちた饗宴』(Bent)では女装の歌手を演じた。

1980年以降の活動編集

1980年代に入りミックとローリング・ストーンズは、81年にアルバム「刺青の男」を発表した。70年代末の不調を払拭するかのような傑作に仕上がり、「スタート・ミー・アップ」ほかのヒット曲が生まれた。ミックは1983年頃までストーンズを中心に活動したが、1984年から本格的なソロ活動を開始し、第一弾としてマイケル・ジャクソンとともにリード・ボーカルを担当したジャクソンズの楽曲「ステイト・オブ・ショック」を発売した。1985年、ビル・ラズウェルナイル・ロジャースのプロデュースにより制作された初のソロ・アルバム『シーズ・ザ・ボス』を発表した。このアルバムからは「ジャスト・アナザー・ナイト」がシングル・カトされた。同年、デヴィッド・ボウイとのデュエットによるチャリティ・シングル「ダンシング・イン・ザ・ストリート」(1985) も発表。86年にローリング・ストーンズ名義で、ボブ&アールをカバーした曲「ハーレム・シャッフル」を発表し、好評を博した。こうした一連の活動状況にキースは強く反発し、ストーンズとして主だった活動は1986年の『ダーティ・ワーク』を除いて1989年まで行われなくなった。ミックは2ndソロ・アルバム『プリミティヴ・クール』を1987年に発売して大々的にコンサートツアーを催すことを発表した。このツアーで初めて来日した。このときバンドに参加したリサ・フィッシャーバーナード・ファウラーの二人は、以降ストーンズの活動にも関わる。

1989年に、ミックはこれまで停滞していたストーンズの活動を再開した。アルバム・リリースとその中からのシングルカット、大規模なワールド・ツアーを行い、その一環でこれまで実現していなかったストーンズの初来日公演が実現したミックは、このツアーからストーンズの活動を中心にしながらソロ活動を展開し、1993年に『ワンダーリング・スピリット』をリリースした。95年には「ライク・ア・ローリング・ストーン」を発表[9]。2001年にレニー・クラヴィッツプロデューサーに迎えて制作された『ゴッデス・イン・ザ・ドアウェイ』といったアルバムをリリースした。またジョージ・W・ブッシュが大統領だった時代に「スウィート・ネオコン」を発表してネオコンを皮肉った。

 
イタリアのサン・シーロにて(2003年)

ミックは2002年誕生日の叙勲英語版で「ポピュラー音楽に対する貢献」によってナイトに叙勲され[10]2003年12月12日に叙任式が行われた。この数年前より当時のトニー・ブレア首相からナイト授与の要請があったことが明かされている。ミックはストーンズやソロ活動を理由にこれを断っていたが、このとき(2003年当時)首相より「ローリング・ストーンズが40年という前人未到の活動を続ける今、あなた以上にこれ(ナイトの称号)を得るに相応しい人物はいない」といわれたという。しかし、ミックの受章に対しキース・リチャーズは「俺は勲章の授与なんて馬鹿げたことだと思ったよ。そんなことはストーンズらしくないぜ。だろ?俺はくそ忌々しい冠を付けてきざなアーミンの白い毛皮を羽織った誰かさんとステージに上がるなんてゴメンだね。俺はミックに言ってやったよ。『そいつは糞食らえの無価値な名誉だ』ってね」[1]とコメントし、これに対してミックは「キースはアイスクリームが欲しくて泣き叫ぶ子供。彼も本当は欲しいんだ」と反論している。2005年にストーンズのアルバム『ア・ビガー・バン』のレコーディングやそれに続くツアーのリハーサルを行う傍ら、ミックはその後も関係が続く元ユーリズミックスのデイヴ・スチュワートとともに映画「アルフィー」の音楽を手がけ、2007年には「ア・ビガー・バン・ツアー」の終了に前後して、自身初となるソロ・ベスト・アルバム『ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー』を発表する。これにはそれまでソロ・アルバムには未収録だった他のアーティストとのデュエットしたものなどが収められている。

2011年にはキャリア50年目にして初の別バンド「スーパーヘヴィ」を結成。ジャガーの他に、先の映画「アルフィー」の制作の際に関わったデイヴ・ステュアートと、ジョス・ストーンダミアン・マーリーボブ・マーリーの息子)、A・R・ラフマーンという5人組。9月21日にアルバム『スーパーヘヴィ』をリリース。さらにこの年、マルーン5がミックを題材にした楽曲「ムーブス・ライク・ジャガー(Moves like Jagger)」をリリースし、ビルボード1位を獲得している。これに制作されたPVでは、60年代から00年代までミックがライヴで着ていた衣装を再現したものを、数多くのモデルや俳優が纏い、動きもミックの真似をするというユニークなものとなっている。制作された当初のPVを閲覧した際、ミックが「自分の映像がフィーチャーされすぎているので、もっと減らしたほうが良い」とマルーン5側にアドバイスしたため。またミックはライブ映像で「ワイルド・ホーセズ」を、女性歌手フローレンス・ウェルチとデュエットした。

2014年、ストーンズのワールド・ツアーを行っている。しかし三月、日本公演後行われるはずだったオーストラリアに到着後、ミックの恋人で良きビジネス・パートナーでもあったローレン・スコットが自殺したという報告を聞いて、ミックは大変なショックを受け茫然自失となった。メンバーは各自が「今はミックを支える時だ」と声明を出し、これに伴って予定されていたオーストラリアニュージーランド公演は延期されることが発表された。2001年頃にローレンと出会ったミックはその後付き合うようになったといい、その後はメンバーの衣装も手がけるようになっていた。ローレンは約9百万ドルと言われる全資産をミックに遺した。

ローレンの死後、ミックはアメリカン・バレエ・シアターのバレリーナであるメラニー・ハムリックと恋人関係にあり、2016年には73歳にしてメラニーとの間に八人目の子供が誕生した。

2019年に、心臓弁の手術を受けるため、北米ツアーの延期を発表した[11]。2019年3月にミックは、重度の大動脈弁狭窄症を指摘され、ニューヨークで経皮的大動脈弁置換術 (Transcatheter Aortic Valve Implantation/Replacement:TAVR/TAVI) を受けたが順調に回復した[12]。大動脈弁狭窄症は開胸手術が選択されることが多かったが適応拡大に伴い、開胸手術低リスク患者であるジャガーにも経皮的大動脈弁置換術が施行された。

日本公演編集

1972年に、ストーンズ初の日本公演が翌年1月に日本武道館で行われることが発表され、チケット販売も行われたが、ミックが1969年の大麻不法所持による有罪判決が原因で入国拒否され、中止となった。日本のファンはストーンズの来日公演を17年後の1990年まで、日本武道館での公演は30年後の2003年まで待たなければならなかった。

ミック自身はストーンズとして来日する前に、ソロ・アルバム『プリミティヴ・クール』(Primitive Cool)を引っ提げ、1988年3月に単独で来日し、東京大阪名古屋でコンサートを行った。『プリミティヴ・クール』にも参加したジェフ・ベックが帯同するという噂も流れたが、ジェフがこの話を断ったため、ジョー・サトリアーニがリード・ギターを担当。日本人パーカショニストのツトム・ヤマシタが全公演、また東京公演の2日目ではティナ・ターナーがゲスト出演した。

Live "Mick Jagger in Japan."」(※全公演SS席6500円、S席5000円) 3月15日・16日・18日・28日 大阪城ホール(28日は、19日に予定だった公演の本人の急病(風邪)による延期公演)
3月22日・23日 東京ドーム
3月25日・26日 名古屋市国際展示場(追加公演)

メンバー
ミック・ジャガー - ボーカルハーモニカギター
ジョー・サトリアーニ- ギター
ジミー・リップ - ギター
ダグ・ウィンビッシュ - ベース
サイモン・フィリップス - ドラムス
フィル・アシュリー - キーボード
リチャード・コットル - キーボード、サックス
リサ・フィッシャー - バッキング・ボーカル
ほか、 ツトム・ヤマシタ - ゲスト・パーカッション
ティナ・ターナー - ゲスト・ボーカル(東京公演2日目のみ)

資産編集

2007年4月、米経済誌フォーブス誌が「過去25年間でもっとも高くついたセレブリティの離婚」のランキングを発表し、ミック・ジャガーとジェリー・ホールの離婚にともなう財産分与金が1500 - 2500万ドルで10位にランクインした[13]2009年4月、英サンデー・タイムズ紙が「英音楽界での長者番付」を発表し、推定資産が1億9000万ポンドだったことがわかった。ミック・ジャガーは経済危機の影響で16%の資産を失った[14]

2009年11月、カートゥーン・ネットワークが「未来のイギリスのトップセレブ」のランキングを発表し、ミック・ジャガーの娘のリジー・ジャガーの20年後の推定総資産額が3億1000万ポンド(日本円で約462億円)で5位にランクインした。このランキングはセレブの子どもたちの20年後の総資産額を推定して作られたものでスター性、推定相続額、才能、カメラ好き度、ショービジネス性などのいくつかのカテゴリーの総合で順位が決まる[15]

2011年5月、英サンデー・タイムズ紙が「英音楽界での長者番付」を発表し、推定資産が1億9000万ポンドで8位にランクインした[16]。経済に詳しいミックは、ストーンズ自身の独自レーベル「ローリング・ストーンズ・レーベル」を立ち上げた以降、バンドの運営に大きく関与している。バンドのギャランティはもちろんのこと、印税配分の管理も自身でおこなっている。

私生活編集

健康オタクとしても知られ、入念な体力トレーニングを行ってきた。60年代の頃までは喫煙家であった。健康を害することを知りながら喫煙して来たが、パフォーマンスに影響することに気付いて以来自発的に禁煙家に転向してドラッグも一切断つなど、現在まで数十年間健康を志向している。それらはソロ・アルバム『ゴッデス・イン・ザ・ドアウェイ』のプロモーションの一環で自宅の映像が流れた際、いくつかの健康器具などが見られた。初来日の際は、ランニングを行っている姿がテレビで取り上げられるなど、いくつかのメディアや映像などから健康志向が窺える。ミックの健康志向は、父ジョー・ジャガーが体育教師を務めていた影響だともいわれる。

 
ニューヨークでの公演にて(1972年7月)

5人の女性と計8人の子どもをもうけて[17]孫が5人いる[18]。2014年5月19日に第1子ジェイドの娘のAssisiに娘が生まれ、曾祖父となった[19]

1971年5月12日、ミックはニカラグア人のガールフレンド、ビアンカ・ペレス・モラ・マシアスと結婚した。ビアンカは10月21日に娘のジェイドを出産した(第1子)。1973年に歌手のマーシャ・ハントは、彼女が1970年に出産した娘の父親がミックであることを、ロンドンの裁判所に申し立てた。子供はミックの娘であると1979年に判明し、毎週1,500ドルを養育費としてハントに支払うことをロサンゼルスの裁判所がミックに命じた。その後ミックとビアンカは1979年11月に離婚し、ミックは1977年頃からアメリカ人モデルのジェリー・ホールと交際を始め、1984年3月2日に娘のエリザベス・スカーレット・ジャガーが、1985年8月28日に息子のジェームス・リロイ・オーガスティンが、1992年1月12日に娘のジョージア・メイ・ジャガーが、1997年12月9日にガブリエル・ルーク・ジャガーの計4子が、誕生した。ブラジル人女性との間にも、子供を授かった。

その他編集

ミックはサッカーのファンだが、FIFAワールドカップにおいて、ミックが応援したチームは負ける(科学的根拠なし)というばかばかしいオカルト的なジンクスもある。ミックがブラジル人の息子と観戦に訪れた2014年FIFAワールドカップ準決勝ブラジル-ドイツ戦ではブラジルが1-7で大敗し、メディアにジンクスを報道された[20]。ミックは、ザ・サンのインタビューに「ドイツの1点目は僕のせいでもいい、あとは知らないよ」と答えた[21]2018年FIFAワールドカップ準決勝イングランドクロアチア戦でも、ミックは母国イングランドを応援するためにモスクワを訪れたが、イングランドは敗れ、イギリスのメディアに報道された [22]

ディスコグラフィ編集

ソロ・アルバム編集

シングル編集

Year Single Peak chart positions Certifications
(sales thresholds)
Album
GER
[23]
IRE
[24]
UK
[25]
US US
Main
US
Dance
1970 "Memo from Turner" 23 32 Performance (soundtrack)
1978 "Don't Look Back" (with Peter Tosh) 43 81 Bush Doctor (Peter Tosh album)
1984 "State of Shock" (with The Jacksons) 23 8 14 3 3 Victory (The Jacksons album)
1985 "Just Another Night" 16 21 32 12 1 11 She's the Boss
"Lonely at the Top" 9
"Lucky in Love" 44 91 38 5 11
"Hard Woman" 57
"Dancing in the Street" (with David Bowie) 6 1 1 7 3 4 Single only
1986 "Ruthless People (B side I'm Ringing)" 51 14 29 Ruthless People (soundtrack)
1987 "Let's Work (B side Catch as Catch Can)" 29 24 31 39 7 32 Primitive Cool
"Throwaway" 67 7
"Say You Will" 39
1993 "Sweet Thing" 23 24 84 34 Wandering Spirit
"Wired All Night" 3
"Don't Tear Me Up" 77 86 1
"Out of Focus" 70
2001 "God Gave Me Everything (B side Blue)" 60 24 Goddess in the Doorway
2002 "Visions of Paradise" 77 43
2004 "Old Habits Die Hard" (with Dave Stewart) 62 45 Alfie (soundtrack)
2008 "Charmed Life" 18 The Very Best of Mick Jagger
2011 "Miracle Worker" (with SuperHeavy) 136 SuperHeavy (SuperHeavy album)
"T.H.E (The Hardest Ever)" (with will.i.am & Jennifer Lopez) 13 3 36 Non-album single
"—" denotes releases did not chart

映画編集

テレビドラマ編集

テレビアニメ編集

関連項目編集

脚注編集

  1. ^ http://www.rollingstone.com/
  2. ^ http://www.dailymail.co.uk/
  3. ^ 中流の上
  4. ^ http://www.rollingstones.com/
  5. ^ McPherson, Ian. “Miss You”. Timeisonourside.com. 2020年3月5日閲覧。
  6. ^ “ハリウッド大物らが支援、資金提供=調査捕鯨妨害のシー・シェパード”. フランス通信社 (時事通信社). (2010年1月7日). http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_cul&k=20100107024278a 2010年1月7日閲覧。 
  7. ^ Tell Me-Allmusic”. 2020年3月5日閲覧。
  8. ^ テンプテーションズのヒット曲である
  9. ^ ボブ・ディラン、65年のフォークロック曲のカバー
  10. ^ "No. 56595". The London Gazette (Supplement) (英語). 15 June 2002. p. 1. 2017年5月14日閲覧
  11. ^ ミック・ジャガーさん心臓手術へ 北米ツアーの延期発表”. 朝日新聞. 2019年4月3日閲覧。
  12. ^ Mick Jagger makes stealthy post-op appearance at girlfriend's Rolling Stones-themed ballet” (英語). USA today. 2019年4月21日閲覧。
  13. ^ http://eiga.com/news/20070417/4/
  14. ^ http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPJAPAN-37687720090424
  15. ^ http://www.cinematoday.jp/page/N0020926
  16. ^ http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPJAPAN-20940020110505
  17. ^ Mick Jagger’s brood: Seven children aged 17 to 46 with five mothers — and now an eighth”. National Post (2016年12月8日). 2020年2月5日閲覧。
  18. ^ 'I'm lucky that I grew up poor'”. The Irish Independent (2008年8月31日). 2020年2月5日閲覧。
  19. ^ Mick Jagger Becomes Great-Grandfather - ウェイバックマシン
  20. ^ “W杯大敗のブラジルのメディア、ミック・ジャガーを「悪運の源」と非難”. RO69 (rockin'on holdings inc.). (2014年7月10日). https://rockinon.com/news/detail/105461 2014年7月10日閲覧。 
  21. ^ 呪いが叫ばれるミック「ドイツの1点目は僕のせいでもいい、あとは知らない」”. ゲキサカ (14/7/13 23:59). 2017年7月30日閲覧。
  22. ^ 英紙、イングランド代表の敗北は「ミック・ジャガーの呪い」と紹介Goal.com 2018年7月12日)
  23. ^ charts.de”. charts.de. 2014年6月28日閲覧。
  24. ^ Irish Singles Chart – Search for song”. Irish Recorded Music Association. 2011年7月6日閲覧。
  25. ^ MICK JAGGER - Artist”. Official Charts Company. 2015年2月11日閲覧。

外部リンク編集