永川 玲二(ながかわ れいじ、1928年2月11日[1]- 2000年4月22日)は、日本英文学者翻訳家ジェイムズ・ジョイスシェイクスピアガルシア・ロルカの翻訳者として知られる。

概要 編集

東京大学文学部英文科を卒業後、旧・東京都立大学助教授などを経て、1970年からスペインセビリアに定住し、主に海洋文学史を研究[2]。ブロンテ「嵐が丘」、ジョイス「ユリシーズ」翻訳が著名である[2]

経歴 編集

鳥取県米子市に生まれた。父は永川重幸

1945年2月、広島陸軍幼年学校を脱走、軍学校の脱走者は逮捕されたら銃殺刑に処されることが決まっていたため日本全国を転々と逃亡して8月の敗戦を迎え、この体験が丸谷才一の小説『笹まくら』の題材となった──と伝えられていたが[3]、永川玲二の弟の永川祐三によるとこの話は虚構であり、実際には1942年4月に広島の陸軍幼年学校に入学、そのまま卒業し、1945年4月、東京代々木の陸軍予科士官学校に入学したことが資料の上で裏付けられるという[4]

その後、東京大学文学部英文科を卒業し、東京都立大学 (1949-2011)助教授となったが、逃亡生活の名残が消えず、新宿で飲み明かすと中央線急行に乗って終点の長野県大町に向かい、黒部山中の「自分の専用の穴ぼこ」の中で一日中寝て英気を養っていたと種村季弘は伝えている(ただし永川玲二の弟によると上掲のように逃亡生活自体が作り話である)[5]ベ平連反戦米兵援助日本技術委員会(JATEC)による脱走兵援助に関与したこともある[6]

ポルトガルの大詩人カモンイシュ伝記を書くための資料を探しにポルトガルを旅行したのがきっかけで都立大を辞職し、1970年からセビージャに定住。海洋文学史を研究すると共に、多国籍のヒッピーの指導者格となった。

セビリア大学の教授を定年で辞してから日本に帰国。虚血性心不全で死去。墓所は郷里鳥取県米子市博労町「法城寺」にある「永川家累代之墓」、関東圏では御殿場市郊外、富士を望む「富士霊園」内、観光名所にもなっている「文学者の墓」に愛用の眼鏡が遺品として納められている[2]。碑には「アンルダシーア風土記 永川玲二 七十二歳 西暦二千年四月二十二日」と記されている[2]

なおNHKエンタープライズ製作の「世界ふれあい街歩きセビリア編では永川がセビージャで住んでいた家が取り上げられている。

家族・親族 編集

明治34年(1901年)1月生[7]~没
明治39年(1906年)生[7]
  • 兄・精一(教育者)
大正13年(1924年)2月生~
  • 弟・祐三(プロデューサー)

著書 編集

  • 『ことばの政治学』(筑摩書房) 1979、のち岩波同時代ライブラリー 1995
  • 『アンダルシーア風土記』(岩波書店) 1999

訳書 編集

(河出書房新社 全2巻) 1964、改訳版(集英社 全3巻) 1996 - 1997、(集英社文庫 全4巻) 2003

関連項目 編集

脚注 編集

  1. ^ 『現代日本人名録』1987年
  2. ^ a b c d 永川玲二 セビリア スペイン アンダルシア
  3. ^ 種村季弘『雨の日はソファで散歩』202頁
  4. ^ 高橋武智『私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた……』203頁
  5. ^ 種村季弘『雨の日はソファで散歩』(筑摩書房2005年
  6. ^ 坂元良江・関谷滋編『となりに脱走兵がいた時代――ジャテック、ある市民運動の記録』(思想の科学社)所収「広い場所へ」。
  7. ^ a b c 『新日本人物大観』(鳥取県版)1958年 ナ…196頁
  8. ^ 重里徹也『佐伯泰英外伝八 スペインの師匠はボヘミアン』(佐伯『夏目影二郎始末旅 鉄砲狩り 決定版』 光文社 ISBN 9784334767204 P366)

外部リンク 編集