理想気体

実際には、どんな気体分子[注 2]にも、ある程度の大きさがあり、分子間力も働いているので、理想気体は実在しない。理想気体に対して現実の気体は、実在気体または不完全気体と呼ばれる[3]。実在気体も、低圧で高温の状態では理想気体に近い振る舞いをするため、常温・常圧において、実在気体を理想気体とみなしても問題ない場合は多い。
状態方程式 編集
理想気体の状態方程式には2ないし3種のバリエーションがある。大きな違いは、気体を粒子の集まりとみなすか否かである。式の上での形式的な違いは、平衡状態における理想気体の圧力 p が
である。
質量密度を変数とする状態方程式 編集
温度 T、体積 V、質量 m の平衡状態における、理想気体の圧力 p は
で表され、質量密度 m/V と温度 T に比例する。比例係数 Rs は比気体定数[注 3]と呼ばれる[5]。係数 Rs は [エネルギー]×[温度]−1×[質量]−1 の次元を持つ定数で、気体の種類によって異なる。例えば空気の比気体定数は Rair = 287 J kg−1K−1 である[6]。この状態方程式は、気体の構成粒子の存在を前提としない場合でも意味を持つ式である。
数密度を変数とする状態方程式 編集
統計力学によると、体積 V の容器の中に古典力学に従う N 個の自由粒子が閉じ込められているとき、温度 T の平衡状態におけるこの気体の圧力 p は
で与えられ、数密度 N/V と温度 T に比例する。比例係数 kB は気体の種類によらない普遍定数で、ボルツマン定数と呼ばれる。 kB の次元は [エネルギー]×[温度]−1 である。粒子数 N が式中に現れていることから明らかなように、この状態方程式は、気体の構成粒子の存在を前提としなければ意味を持たない。
モル体積を変数とする状態方程式 編集
温度 T、体積 V、物質量 n の平衡状態における、理想気体の圧力 p は
で表され、モル体積 V/n に反比例し、温度 T に比例する。比例係数 R は気体の種類によらない普遍定数で、モル気体定数[注 4]と呼ばれる。R は [エネルギー]×[温度]−1×[物質量]−1 の次元を持ち、その値はボルツマン定数 kB にアボガドロ定数 NA を掛けたものに等しい。また、比気体定数 RM に気体のモル質量 M を掛けたものにも等しい。この状態方程式は、通常は、気体の構成粒子の存在を前提としている。なぜなら国際単位系では、気体の物質量 n は構成粒子数 N を NA で割ったものとして定義されるからである。ただしSIの定義にこだわらなければ、気体の構成粒子の存在を前提しなくても、純粋に巨視的な物理学の範囲内でこの状態方程式に意味を持たせることができる[7][8]。
内部エネルギー 編集
理想気体のエネルギーの表式にも2ないし3種のバリエーションがある。大きな違いは、気体の熱容量が温度に依存するか否かである。理想気体の状態方程式と熱力学的状態方程式から、内部エネルギーが体積に依存しないことが示される。しかし、内部エネルギーが温度に比例すること、すなわち定積熱容量が温度に依存しないことまでは示されない。理想気体の状態方程式を満足する気体は半理想気体、あるいは半完全気体と呼ばれる[9]。半理想気体のうち、内部エネルギーが温度に比例する気体を狭義の理想気体という。狭義の理想気体のうち、構成粒子が内部自由度[注 5]を持たない気体を単原子理想気体という[10]。
単原子理想気体 編集
温度 T、物質量 n の平衡状態における、単原子理想気体の内部エネルギー U は
で表される。この式から単原子理想気体の定積モル熱容量 CV, m は
と与えられる。単原子理想気体の CV, m は、温度にも気体の種類にも依らない定数である。
狭義の理想気体 編集
温度 T、物質量 n の平衡状態における、狭義の理想気体の内部エネルギー U は
で表される。
構成粒子を剛体とみなせる場合、比例係数 c は粒子1個当たりの自由度の 1/2 に相当する。内部自由度のない単原子理想気体であれば c = 3/2 である。剛体回転子とみなせる直線分子なら内部自由度が 2 なので c = 5/2、剛体回転子とみなせる非直線分子なら内部自由度が 3 なので c = 3 である。実在の分子で剛体回転子とみなせる分子は少ない。例えば一酸化炭素 CO は c = 2.50 だが、二酸化炭素 CO2 は c = 3.46 である。水蒸気 H2O は c = 3.04 だが、二酸化硫黄 SO2 は c = 3.80 である。二原子分子に限っても塩素 Cl2 は c = 3.08 であって、5/2 よりもむしろ 3 に近い[11]。希ガス、酸素、窒素、水蒸気などの少数の例外を除けば、比例係数 c は分子式から手計算で求められる数値ではない。ファンデルワールス定数 a, b と同様に、比例係数 c は実際の気体の熱力学的性質を再現するように定められるパラメータである。また、剛体回転子とはみなせない分子の標準定積熱容量は、温度により少なからず変化する。それにも関わらず狭義の理想気体という気体の理論モデルをあえて考えるのは、エントロピーなどの表式がきわめて簡単になるからである[12]。また、内部エネルギーを表す近似式としてそれで十分な場面も多い。とくに空気の主成分である酸素、窒素、水蒸気は(結露しない限り)比較的広い温度・圧力範囲で狭義の理想気体とみなせる。
温度 T、質量 m の平衡状態における、狭義の理想気体の内部エネルギー U は
で表される。狭義の理想気体の定積比熱容量 cV は、温度に依らない気体に固有の定数である。
熱力学関数としては、エントロピー S 、体積 V、物質量 n が内部エネルギーの自然な変数である。この考え方で表すと、1成分理想気体の内部エネルギーは
となる[13]。ただし添え字の 0 は適当に選んだ基準値を表す。
半理想気体 編集
温度 T、物質量 n、質量 m の平衡状態における、半理想気体の内部エネルギー U は
で表される。ここで U0 は、温度 T0 における物質量 n、質量 m の半理想気体の内部エネルギーである。半理想気体の CV, m と cV は、圧力と密度には依らない温度 T の関数である。関数の形は気体の種類により異なる。関数が定数関数 CV, m(T) = cR であるとき、その気体は狭義の理想気体である。構成粒子の並進運動の自由度のため、半理想気体の定積モル熱容量について任意の温度で
が成り立つ。
性質 編集
理想気体に成立する法則として代表的なものには次のものがあげられる。
ボイルの法則 編集
理想気体の等温圧縮率 κT は気体の種類に依らない。
シャルルの法則 編集
理想気体の熱膨張率 α は気体の種類に依らない。
アボガドロの法則 編集
アボガドロの法則は、同一圧力、同一温度の条件下では、気体の種類に関係なく同体積に同じ数の分子を含むというもの。 この法則は、気体の構成粒子の存在を前提としなければ意味を持たない。
ドルトンの分圧の法則 編集
理想気体の混合気体について、その圧力が混合気体を構成する個別の気体の分圧の和であるという法則。 この法則が成り立つ条件は、気体の構成粒子の存在を前提するか否かで異なる。
- 構成粒子の存在を前提する場合
- 気体の混合前後あるいは分離前後で構成粒子の総数が変化しない。
- 構成粒子の存在を前提しない場合
- 準静的な等温操作で混合あるいは分離のための仕事 Wmix が無視できる[14]。
エンタルピー 編集
半理想気体のエンタルピー H は
で表される。
狭義の理想気体のエンタルピー H は
で表される。
T と n が同じであれば、理想気体のエンタルピー H は V にも p にも依らずに同じ値になる(ジュールの法則)。理想気体は等エンタルピー膨張で温度が変化しない。
モル熱容量 編集
半理想気体のモル熱容量は圧力にも気体の密度にも依らない。
狭義の理想気体の定積モル熱容量 CV, m は
で表され、定圧モル熱容量 Cp, m は
で表される。
理想気体の二つのモル熱容量の差は
となる。この関係はマイヤーの関係式と呼ばれる。この関係式は半理想気体についても成り立つ。また、理想気体の二つのモル熱容量の比 γ は比熱比と呼ばれ
となる。半理想気体の比熱比 γ は一般には温度に依存する。狭義の理想気体の場合は、熱容量が温度に依存しないので
となり、比熱比 γ も温度に依存しない。
エントロピー 編集
狭義の理想気体のエントロピー S は
となる。ここで α は物質固有の定数である。狭義の理想気体のエントロピーの形は、熱力学第三法則を満たさない。
半理想気体のエントロピー S は
となる。ここで α0 は物質固有の定数[注 6]である。半理想気体の CV, m が 3R/2 を下回ることはないので、半理想気体のエントロピーの形もまた、熱力学第三法則を満たさない。
準静的な断熱過程においては、エントロピーが一定となる。このとき
の関係がある。これらはポアソンの法則と呼ばれる。狭義の理想気体では、ポアソンの法則が厳密に成り立つ。半理想気体では、ポアソンの法則が近似的に成り立つ。
自由エネルギー 編集
自然な変数で表した1成分理想気体のヘルムホルツの自由エネルギー F(T, V, n) およびギブスの自由エネルギー G(T, p, n) は以下となる[15]:
ただし添え字の0は適当に選んだ基準値を表す。
統計力学による再現 編集
理想気体の手短な解説[16]において
- 理想気体の体積中では気体分子の占める体積は存在しない(分子の体積がゼロ)。
- 理想気体では分子間力がいっさい作用しない(相互作用がゼロ)。
- 理想気体は分子同士[17]や容器内壁と衝突してもその衝突前と衝突後で運動エネルギーの和は変わらない(完全弾性衝突)。
という説明がなされることがある。しかし、分子の体積と相互作用の両方が厳密にゼロだったなら、分子同士が衝突することはありえない。そのため気体が熱平衡に達するには、容器内壁を介して間接的に分子がエネルギーを互いにやり取りしなければならない。ところが容器内壁と分子の衝突が完全弾性衝突だったなら、それも不可能である。したがって、分子の体積がゼロ、相互作用がゼロ、完全弾性衝突だったなら、どれだけ時間が経っても気体が熱平衡に達することはない。
上の3条件のいずれかを適当に緩めると、気体を熱平衡状態にすることができる。例えば、容器内壁と分子の間にエネルギーのやり取りを許せばよい。そうすると壁を温度 T の熱浴とみなせるので、カノニカル分布の方法が使える[18]。
あるいは、完全弾性衝突の条件をそのままにして
- 理想気体の体積中で構成粒子の占める体積はきわめて小さいがゼロではない(微小剛体球)。
- 理想気体では粒子間に引力が働かない(引力がゼロ)。
- 理想気体は粒子同士や容器内壁と衝突してもその衝突前と衝突後で運動エネルギーの和は変わらない(完全弾性衝突)。
としてもよい[19]。ここで微小剛体球の半径は、実際の分子の大きさよりもずっと小さい値、例えば 1 fm(核子くらいの大きさ)を仮定する。剛体球なので、粒子間距離が球の直径より小さくなろうとしたときには強い斥力が働いて粒子同士の衝突は完全弾性衝突となるが、粒子間距離が球の直径より少しでも大きいときには粒子間に相互作用が働かない。理想気体の体積中で構成粒子の占める体積が十分に小さければ、この系はほとんど独立な粒子の集まりとなるので理想系[注 7][20][21]である。容器内壁との衝突が完全弾性衝突ということは、この壁が断熱壁であるということなので、体積 V と 粒子数 N が一定であれば、この系は孤立系である。よってボルツマンの公式によりエントロピーを求めることができる(ミクロカノニカルアンサンブル)。
内部自由度のない粒子からなる理想気体 編集
単原子理想気体の性質は、粒子の並進運動の分配関数から計算できる。すなわち、容器内壁以外でポテンシャルがゼロであるようなハミルトニアンを用いることで、単原子理想気体の性質が統計力学により再現される。
剛体回転子からなる理想気体 編集
狭義の理想気体の性質は、分子の並進と回転の分配関数から計算できる。分子を古典力学に従う剛体回転子とみなすと、理想気体の熱容量が温度に依存しないことが統計力学により再現される。
振動する分子からなる理想気体 編集
半理想気体の性質は、分子の並進と回転と振動の分配関数から計算できる。必要であれば分子の電子状態の分配関数も考える。調和振動子のハミルトニアンを用いることで、理想気体の熱容量が温度に依存することが統計力学により再現される。窒素 N2、酸素 O2、水蒸気 H2O の熱容量が比較的広い温度範囲で一定とみなせるのは、これらの分子の分子振動を励起するのに必要なエネルギーが kBT よりもずっと大きいためである。
相転移 編集
理想気体はどんな条件下でも相転移しない。これは理想気体が以下の性質を持つと仮定しているためである。
- 理想気体の体積中で気体分子の占める体積は無視できるほど小さい。
- 実在気体では、圧力を一定に保ったまま温度を下げていくと、液体か固体に相転移する。あるいは、温度を一定に保ったまま圧力を上げても、液体か固体に相転移する。それに対して理想気体では、圧力を一定に保ったまま温度を下げていくと、気体の体積が際限なく小さくなる。温度を一定に保ったまま圧力を上げても同様である。理論上は、絶対零度または圧力無限大の極限で理想気体の体積は 0 になる。理想気体では実在気体の相転移現象を再現できない。
- 理想気体を拡張したモデルに剛体球モデルがある。このモデルでは、気体分子は、分子と同程度の大きさの剛体球で表される。剛体球モデルでは、適度な低温または適度な高圧で、気体が固体に相転移する(アルダー転移)[22]。このことから、理想気体で相転移が起こらないのは気体の分子の体積を無視したためであることが分かる。剛体球モデルでは平均自由行程を求めることができるので、粘度などの輸送係数について議論することができる。また、密度が低くて連続体とみなすことができない希薄気体を扱うこともできる[23]。
- 理想気体には気体分子間の引力が作用しない。
- 剛体球モデルでは、気体から液体への相転移が起きない。それに対して理想気体の別の拡張モデルであるファンデルワールス気体では、気液相転移が起こる[注 8]。ファンデルワールス気体は、気体分子間の引力を考慮した理論モデルである。このことから、理想気体や剛体球モデルで気液相転移が起こらないのは気体分子間の引力を無視したためであることが分かる。
極限法則としての理想気体 編集
理想気体は気体の理論モデルである。理想気体は想像上の存在である、といってもよい。ボイル=シャルルの法則が厳密に成り立つ気体は、現実には存在しない。理想気体の法則は、低圧の状態に近づくにつれて実在気体でも厳密に成り立つようになる極限法則[24][注 9]である。
実在気体が理想気体と若干異なる性質を持つのは、気体分子に体積があり、分子間力が働いているためである。温度 T と分子数 N が一定の場合、気体が低圧の状態に近づくということは、気体分子の数密度が減るということだから、気体分子の体積と分子間力について次のことが言える。
- 実在気体の体積中で気体分子の占める体積の割合は、温度が同じなら低圧ほど小さくなり、圧力ゼロの極限でゼロになる。
- 実在気体の気体分子間に働く分子間力は、温度が同じなら低圧ほど弱くなり、圧力ゼロの極限でゼロになる。
- 低密度になるほど、分子間の平均距離が長くなる。分子同士が離れているほど、分子間力は弱くなる。個々の分子がほかの分子の影響を受けずに過ごす時間は低密度になるほど長くなる、といってもよい[25]。
どんな気体でも温度を一定に保ったまま低圧にすると、気体分子の体積と分子間力が無視できるようになるので、ボイル=シャルルの法則が成り立つようになる。実在気体の状態方程式はすべて、低密度で理想気体に漸近する形になっている。例えばファンデルワールスの状態方程式
あるいはビリアル方程式
はどちらも、温度 T 一定、モル体積 Vm → ∞ の極限で理想気体の状態方程式となる。
同じ理由で、どんな気体でも圧力を一定に保ったまま高温にすると、密度が減少して気体分子の体積と分子間力が無視できるようになるので、ボイル=シャルルの法則が成り立つようになる。ただしある程度の高温になると、どんな気体でも分子の解離や電離(プラズマ化)が起こるため、分子数 N が温度や圧力によって変化するようになる。そのような高温領域では、アボガドロの法則とドルトンの法則は成り立っても、ボイル=シャルルの法則は成り立たなくなる。それゆえ「理想気体の法則は高温の状態に近づくにつれて実在気体でも厳密に成り立つようになる極限法則である」ということはできない。
理想気体の応用 編集
理想気体は、気体が関係する物理化学現象を解析する際に、気体のモデルとして多用される。例として
が挙げられる。
歴史 編集
ルニョーによる発見 編集
気体の性質については、17世紀には盛んに研究がすすめられ[26]、ボイルの法則やシャルルの法則などが発見されていた。そして19世紀に入った1802年、ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックは、気体の体積は温度が1℃上昇すると266分の1だけ増加し、この増加の割合は気体の種類によらないという実験結果を発表した[26][27]。さらに同じ時期に、ジョン・ドルトンも同様の結果を導き出した[28](しかし後に、ドルトンの測定値には計算の誤りがあり、実際はゲイ=リュサックの値とは異なっていることが明らかになっている[29])。
気体の熱膨張率が気体の種類によらないというゲイ=リュサックらの実験結果から、気体は物質の種類とは無関係の熱の普遍的な性質が現れると考えられるようになった[30]。さらに、気体は固体や液体よりも熱膨張しやすく観測が容易であることも相まって、19世紀前半になると、熱学において気体の研究は重要な位置を占めるようになった[30]。
しかしその後、このゲイ=リュサックの結果に対して疑問が抱かれるようになった。フレードリク・ルードベリは1837年の論文で、ゲイ=リュサックの実験は空気を乾燥していない条件での数値であって、乾燥させた空気では値が異なってくることを明らかにした[31]。ハインリヒ・グスタフ・マグヌスはルードベリの実験を追試するとともに、体積が膨張する割合は気体によって異なることを発見した[32]。
アンリ・ヴィクトル・ルニョーは1842年の論文で、様々な気体について精密に実験した結果を発表した[33]。そして、ゲイ=リュサックらによる気体の基本的な性質が成り立つのは、特殊な条件下にある気体、すなわち理想気体に限られることを見出した。さらにルニョーは、気体が圧縮された状態にあると、理想気体からのずれは大きくなることを発見した。ルニョーは、これは圧縮によって分子間の引力が強くなったためだと推察した[34]。
分子間力も考慮に入れた状態方程式は、1873年、ヨハネス・ファン・デル・ワールスによって作られた[35][36]。
温度計への影響 編集
ゲイ=リュサックの理論が理想気体のみでしか成り立たないという発見は、温度計の分野において大きな転換点になった。そもそも温度計は、温度によって基準物質(水銀など)が体積変化(または圧力変化)する現象を利用している。そして当時は、熱の本質はカロリック(熱素)という物質であるという、カロリック説が主流であった。カロリック説によれば、温度とはカロリックの量で決まるため、カロリックの量を正しく反映させることのできる温度計が優れた温度計となる[37]。そして、ゲイ=リュサックの実験によれば、気体においてはどの気体でも熱膨張率が一定であるので、このことから気体は液体や固体と比べて物体の種類に影響されることなく、カロリックの量を正確に反映した体積変化をすると考えられていたのである[38]。以上のことから、ピエール=シモン・ラプラスは1825年、著書『天体力学』5巻において、気体である空気を基準物質とした空気温度計こそが真の温度計だと主張した[39]。
しかし、ルニョーによって気体の熱膨張率が気体の種類によって異なることが明らかになると、空気温度計を真の温度計として他と比べて絶対視することはできなくなった[34]。ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)は1848年、特定の物質を基準物質として、それで絶対的な尺度を得ることはできないと述べた[40]。
熱力学第二法則 編集
実在の気体は理想気体の性質を満たさないが、高温になると理想気体と似たふるまいを示す。この現象について、カロリック説では、高温の気体ではカロリックの持つ膨張力(斥力)が強くはたらき、分子間力が無視できるようになるためだと説明されていた[41]。それに対し、ルドルフ・クラウジウスは、高温では分子間力に対してなされる仕事が、外圧に対してなされる仕事と比べて無視できるほど小さくなるためだと述べ、カロリックを使わずにこの現象を説明した[42]。
そしてクラウジウスは1850年の論文で、理想気体を取り上げて研究し、理想気体の状態方程式などから、熱力学第一法則(エネルギー保存の法則)を定式化した。さらにクラウジウスは同論文で、熱は低温の物体から高温の物体へとひとりでに流れることはないという、熱力学第二法則を初めて導き出した[43]。
一方、ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)は理想気体に基づいた理論を拒否した[44]。そしてトムソンは、クラウジウス論文から1年遅れとなる1851年に、理想気体に限定しない形で熱力学第二法則を導き出した[44]。さらに1854年には、同じく理想気体に頼らずに熱力学温度を定義した[45]。トムソンは1878年、理想気体について、「そのどの性質もいかなる現実の物質によっても厳密には実現されず、そのいくつかの性質は未知で想像によってさえまったく与えることのできない完全気体と呼ばれるある架空の実在を最初に構成することによって、熱力学の理解はきわめて遅らされ、学生は不必要に混乱させられ、単なる浮砂にすぎぬものが温度測定の基礎として与えられてきた」と批判している[46]。
脚注 編集
注釈 編集
- ^ 分子や原子など。
- ^ 気体を構成する個々の粒子のこと。気体分子運動論では、構成粒子が原子であってもこれを分子と呼ぶことが多い。
- ^ specific gas constant。単に気体定数と呼ぶことが多い。
- ^ molar gas constant。単に気体定数と呼ぶことが多い。
- ^ 粒子の回転や変形などの自由度のこと。
- ^ 基準とする温度 T0 には依存する。
- ^ わずかな相互作用により粒子が互いにエネルギーを交換するが、相互作用エネルギーの全系のエネルギーへの寄与は無視できるほど小さく、全系のエネルギーが個々の粒子のエネルギーの和として与えられる系のこと。
- ^ ただしファンデルワールス気体では、固体への相転移は起こらない。
- ^ ある極限状態に近づくにつれて近似が良くなり、極限状態では厳密に成り立つ法則のこと。
出典 編集
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- ^ 『アトキンス物理化学』 p. 9.
- ^ 伏見 1942, p. 9.
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- ^ 『理化学辞典』「気体定数」.
- ^ 松尾 1994, p. 9.
- ^ キャレン 1999, p. 12.
- ^ 田崎 2000, p. 52.
- ^ 松尾 1994, p. 15.
- ^ キャレン 1998, p. 87.
- ^ これらの c の値は『アトキンス物理化学』 表2・7 より算出した。
- ^ 松尾 1994, p. 14.
- ^ 清水 2007, p. 115.
- ^ 田崎 2000, p. 175.
- ^ 清水 2007, p. 264,401.
- ^ 石川 2016, p. 76; 卜部 2005, p. 116など。
- ^ 石川 2016, pp. 76–84. には理想気体の分子同士の衝突に関する記述はない。
- ^ 香取 2007, pp. 10, 20.
- ^ 松尾 1994, p. 10.
- ^ 中村 1993, p. 92.
- ^ 阿部 1992, p. 3.
- ^ 香取 2007, p. 13.
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参考文献 編集
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