田畑百貨店火災

田畑百貨店火災(たばたひゃっかてんかさい)は、1971年昭和46年)5月12日千葉県千葉市中央(現・千葉市中央区中央)2丁目に存在した百貨店で発生した火災事故である。

田畑百貨店火災
Chiba Parco 1.jpg
田畑百貨店跡地に建てられた千葉パルコ
2011年の写真)
現場 千葉県千葉市中央2丁目2-2
田畑百貨店
発生日 1971年5月12日
1時22分 (1時33分 - 17時35分[1])
類焼面積 9,380m²[1]
原因 不明
死者 田畑国利
負傷者 63名[1]
関与者 不明
目的 不明

目次

会社概要編集

「田畑百貨店」は第二次世界大戦後、中国から引き揚げてきた田畑国利が千葉市栄町で古着屋を1947年に開いたのが始まりである。その後衣類・雑貨へと販売品目を拡げ、1950年、千葉市中央2丁目にメリヤス雑貨専門店を開店した。1964年、メリヤス雑貨専門店敷地に6階建ての百貨店をオープン。1968年には、共同仕入機構を通じて伊勢丹と業務提携した。1969年には地上8階・地下3階に改築。

当時の田畑百貨店は奈良屋(のちにニューナラヤを経て三越千葉店)、扇屋(のちの扇屋ジャスコ)とともに千葉市の地場百貨店の一角を担う存在であったが、そごうを始めとする千葉県外資本の出店が相次いだこともあって千葉市内の百貨店では下位にあり、「若いあなたのデパート」をモットーに、巻き返しを図る最中の火災であった。

火災編集

1971年5月12日午前1時22分頃、千葉港へ戻る途中の船員3人がガラスの割れる音に気付き、屋外にあった木製段飾り付近から火が出ているのを発見した。近隣ビルの管理人などとともに消火に当たったものの、隣接していたシャッターの郵便受け口から建物内部の合板内壁に延焼。さらに店内奥へと延焼していった。千葉市消防局では消防車23台を出して消火に当たったものの、最初に延焼した旧館部分にはスプリンクラー設備が設置されておらず、防火区画の不備や合板で窓を塞ぐなどもあり、また、衣類などの商品や建材が猛煙を発生させたため消火に手間取り、延べ9380平方メートルを全焼、鎮火に16時間を要するなど、当時としては焼失面積・延焼時間共に最大の火災[2]となった。

鎮火後、8階階段の踊り場で田畑国利社長(当時58歳)が遺体で発見された。この火災での唯一の犠牲者でもある。4階には社長室があって「住み込み社長」と自称する程普段よりここに泊まり込むことが多く、この時も前夜友人の祝賀会に出席した後、午後10時頃社長室に戻って就寝。火災に気付いた時には煙が充満していて肌着に裸足姿で避難したものの、屋上まであと10メートルのところで力尽きたものと見られている。

前日は定休日[3]で従業員は慰安旅行に出ており、午前から当日午前0時頃まで地階(食品売場)で冷凍機の配管工事が行なわれていた。当初はこの時の溶接作業の火が他に燃え移ったと見られていた。木製段飾りの火元は放火とも、通行人の煙草の投げ捨てとも言われているが、はっきりとした原因は不明である。

火災後編集

店舗焼失と経営者を失った田畑百貨店のダメージは大きく、救済を求める形で6月には西武百貨店と資本参加を含む業務提携を締結(伊勢丹との提携は解消)。1972年(昭和47年)には、一部店舗を再建して営業を再開。1974年には増築の上で新装オープンしたものの、火災の痛手からは立ち直れず1976年に閉店。同年12月1日、田畑百貨店跡地が千葉パルコとなって再オープン。その後売り上げの伸び悩みから1978年に一部を西友に業態転換し営業を継続してきたが、2016年11月30日をもって40年の歴史にピリオドを打った。跡地には20階建ての複合ビルの建設が予定されている[4]

脚注編集

  1. ^ a b c 特異火災事例. “(株)田畑百貨店 (PDF)”. 消防防災博物館. 2013年4月30日閲覧。
  2. ^ 小売店火災での焼失面積ではその後発生した千日デパート火災大洋デパート火災に次ぐ。延焼時間(16時間13分)は神戸デパート火災、千日デパート火災に次ぐ。
  3. ^ 戦後の百貨店火災では西武百貨店池袋本店火災(1963年8月22日)、野沢屋百貨店(後の横浜松坂屋)火災(1970年9月9日)、福田屋宇都宮店火災(1970年9月10日)と定休日に発生したことから、ある新聞では「また定休日の悲劇」と見出しをつけた。
  4. ^ “千葉パルコ閉店 40年ありがとう”. 東京新聞 (中日新聞社). (2016年12月1日). http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201612/CK2016120102000164.html 2016年12月12日閲覧。 

関連項目編集