百済楽(くだらがく)は、中国大陸から伝来したもののうち、朝鮮百済を経由して日本に伝わった雅楽である。当初は、新羅楽、百済楽などのように、細かく分かれていたが、その後、大陸から伝来したもののうち、朝鮮を経由してきたもの、およびそのスタイルにならって日本で新作された雅楽の総称「高麗楽」としてまとめられた[1]

概要 編集

朝鮮の歌舞は、漢の武帝朝鮮植民地である漢四郡を設置した際に高句麗に「伎人」を下賜したことにはじまる[2]史料には、元封三年(紀元前108年)、漢の武帝が朝鮮を滅して漢四郡を設置した際、高句麗に鼓・吹などの楽器と楽人を下賜したこと、高句麗人が歌舞を楽しむ様子、宋代には高句麗の楽が百済楽とともに世に知られていたことなどが記されている[2]

武帝滅朝鮮,以高句麗為県,使属玄菟,賜鼓吹伎人。其俗淫,皆契浄自憙,暮夜輒男女群聚為倡楽。

武帝、朝鮮を滅ぼすや、高句麗を以て県と為し、玄菟に属せしめ、鼓・吹・伎人を賜ふ。其俗淫なるも、皆契浄自憙、暮夜輒はち男女群聚して倡楽を為す[2] — 後漢書、巻八十五、高句麗伝
其民喜歌舞,国中邑落,暮夜男女群聚,相就歌戯。

其の民、歌舞を喜ぶ。国中の邑落、暮夜男女群聚し、相就きて歌戯す[2] — 三国志、巻三十、魏書高句麗伝
宋世有高麗・百済伎楽。

宋の世、高麗・百済伎楽有り[2] — 旧唐書、音楽志

歴史 編集

「百済楽」という言葉自体が登場するのは、『日本書紀』の天武天皇12年(683年)1月の以下である[3]

是の日に、小墾田儛(をはりだのまひ)及び高麗(こま)百済・新羅、三国(みつのくに)の楽(うたまひ)を庭(おほば)の中に奏(つかへまつ)る。

百済から楽人が渡来したことは、『日本書紀』の欽明天皇15年(554年)2月に百済が援軍を大和王権に依頼し、将軍を交替したのに合わせて、五経博士僧侶を交替させ、新たに易博士・暦博士・医博士・採薬師・楽人を貢上した、みな請願によって交替した、とあるのが初出である[4]

箜篌(たてくご、百済琴とも)・横笛百済笛)・莫目などの楽器を使用したもので、楽師の数は職員令17では4人、『令集解』に引用されている雅楽大属尾張浄足説では、芎篌師・横笛師(歌も兼任)・韓琴師・儛師各1名ずつ、大同4年(809年)3月のでは韓琴師が莫目師になっている[5]

続日本紀』によると、天平3年(731年)6月に「雅楽寮の雑楽生の員を定む」とあり、これにより楽生の数が決められている。それによると、百済楽は26人であるが[6]、養老令では20人となっている。その内訳は嘉祥元年(848年)9月の格では横笛生1人、莫牟生1人、箜篌生2人、儛生4人、儛女10人、多理志古生1人、歌生1人で、同年のうちにこのうち箜篌生1人・儛生2人、儛女を減じて7人としている[5]

天平16年(744年)2月には聖武天皇のための百済王氏による演奏があり[7]、延暦10年(791年)10月には桓武天皇のために藤原継縄が率いて百済王氏に百済楽を演奏させており[8]、それぞれ演奏者が昇叙されている。

百済楽は平安時代には高麗楽に吸収され、百済琴・百済笛・莫目などの楽器もやがて廃れた。

脚注 編集

  1. ^ マイペディア高麗楽』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e 石井正敏 (2005年6月). “5世紀の日韓関係 - 倭の五王と高句麗・百済 -”. 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究): p. 158. オリジナルの2015年10月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151018092747/http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/1/1-03-ishii_j.pdf 
  3. ^ 『日本書紀』巻第二十九・天武天皇下・十二年正月十八日条
  4. ^ 『日本書紀』巻第二十九・欽明天皇・十五年二月条
  5. ^ a b 『続日本紀 2』岩波書店〈新日本古典文学大系13〉、1990年、548頁。 
  6. ^ 『続日本紀』巻第十一・聖武天皇・天平三年六月二十九日条
  7. ^ 『続日本紀』巻第十五・聖武天皇・天平十六年二月二十日条
  8. ^ 『続日本紀』巻第四十・桓武天皇・延暦十年十月十二日条

参考文献 編集

関連項目 編集