真木重遠
真木 重遠(まき しげとお、弘化4年6月9日(1847年6月9日) - 昭和6年(1931年)2月3日)は、日本の牧師。元長岡藩士。家禄100石。
まき とおしげ 真木 重遠 | |
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生誕 |
1847年7月20日 日本 越後国長岡(現、新潟県長岡市) |
死没 |
1931年2月3日(83歳没) 日本 東京府 |
墓地 | 新潟県長岡市長興寺 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 崇徳館、新潟英学校 |
職業 | 武士(長岡藩)、教育者、牧師 |
配偶者 | 世良田志織(世良田亮の妹) |
失脚した真木越中守(3000石)、長岡藩士真木小太夫重基(1700石)の嫡流子孫。キリスト者であるが、真木家墓地は長岡市の仏教寺院である長興寺の 山本五十六等が眠る墓地と同じ敷地にある。
生涯
編集長岡藩士時代
編集長岡藩領に生まれる。戊辰戦争(北越戦争)に従軍。幼少期に藩校の崇徳館で漢学を学ぶ。1869年(明治2年)にS・R・ブラウンが明治政府の要請で官立新潟英学校(男子校)で教えるために、新潟に赴任した時ブラウンより英語を学ぶ。[注釈 1]
明治政府が、ブラウンに横浜に開校する修文館の責任を持つことを強く要請し、ブラウンは1870年(明治3年)7月16日に横浜に戻る。その時、真木、阿部欽次郎ら6人がブラウンに同行する。そして、真木たちは横浜の修文館で引き続き、ブラウンの指導を受ける。[注釈 2]
日本基督公会会員
編集1873年(明治6年)にS.R.ブラウンから洗礼を受け、[注釈 3][注釈 4]日本基督公会(現、日本キリスト教会横浜海岸教会)に所属する。
その後、工部省の通訳の仕事をするが、同じく、日本基督公会のメンバーの稲垣信に同行して、長野県上田の伝道に向かう。そして、1877年(明治10年)前年の伝道旅行で訪れた上田基督公会の伝道師になる。[1][注釈 5]
同年10月日本基督一致教会の中会が組織された時、真木が伝道師をする上田教会も8教会の1つとして加わった。[注釈 6] 1878年(明治11年)2月に世良田志織と結婚する。
日本基督一致教会牧師
編集1879年(明治12年)9月に真木は牧師の按手礼を受ける。しかし、1880年(明治13年)10月に在任わずか1年3カ月で辞任し開拓伝道を始める。上田教会は無牧になる。
真木は、1883年(明治16年)まで、南北佐久郡と小県郡の開拓伝道を行う。この間、春日村で岡部太郎が救われる。
1886年(明治19年)に東京に移動し、日本基督一致教会麹町教会(現、日本基督教団高輪教会)の牧師になる。1890年(明治23年)には、大阪一致教会(大阪女学院)の校長になる。
しかし、翌年伝道を始め、1891年(明治24年)には青森、1897年(明治30年)には長野県小諸、1900年(明治33年)には長野県松本で伝道し、1911年(明治44年)には東京に戻り余生を過ごす。[2][3]
脚注
編集注釈
編集- ^ ブラウンは伝道局からではなく日本政府から直接給料をもらうことになり、直接伝道をする時期が来たら宣教の仕事に専念することを条件に承諾する。(辻 2003, pp. 173)
- ^ 修文館では、宮部金吾、佐久間信恭、都築馨六、佐藤昌介、小野梓など30名以上の生徒が学んでいた。(辻 2003, pp. 173)
- ^ 真木重遠は新潟県人としては最初の信徒であたが、組合教会の長岡教会が設立されるのはやっと1888年(明治21年)になってからである。(高橋 2003, pp. 96)
- ^ 新潟県人としては最初の洗礼者であった。(阿部 1988, pp. 123)
- ^ 授業は毎日午後3時半から6時半まで3時間行われ、ピーター・パーレー(Peter Parley,本名:サミュエル・グリスウォルド・グッドリッチ)の『万国史』などをテキストにしていた。最初の入学者は12名であった
- ^ 日本基督公会が横浜海岸教会(横浜公会)、東京新栄教会(東京公会)、信州上田教会、肥前長崎教会で、日本長老教会が横浜住吉教会(横浜第一長老教会)、東京芝霜月教会(東京第一長老教会)、東京品川教会、下総大森教会であり、合計8教会で日本基督一致教会の中会が形成された。(中島 2003, pp. 50)
出典
編集参考文献
編集図書
編集- 高橋昌郎『明治のキリスト教』吉川弘文館、2003年。ISBN 4-642-03752-7。
- 守部喜雅『日本宣教の夜明け』いのちのことば社、2009年。ISBN 978-4-264-02638-9。