硫黄山 (九重町)

大分県九重町にある山

硫黄山いおうざんは、大分県玖珠郡九重町九重連山にある

硫黄山
長者原やまなみハイウェイから見た硫黄山
標高 1580 m
所在地 日本の旗 日本大分県玖珠郡九重町
位置 北緯33度05分40秒 東経131度14分20秒 / 北緯33.09444度 東経131.23889度 / 33.09444; 131.23889座標: 北緯33度05分40秒 東経131度14分20秒 / 北緯33.09444度 東経131.23889度 / 33.09444; 131.23889
山系 九重連山
種類 溶岩
硫黄山 (九重町)の位置(大分県内)
硫黄山 (九重町)
硫黄山 (九重町) (大分県)
硫黄山 (九重町)の位置(日本内)
硫黄山 (九重町)
硫黄山 (九重町) (日本)
プロジェクト 山
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2023年時点の地理院地図および日本の主要な地図サービスには記載されていないが、登山者用に販売されている地図には記載がみられる。

特徴 編集

活火山群の九重連山を構成する星生山東側の尾根筋にあり、常時噴気を上げている。山麓から「北千里ヶ浜」と呼ばれる砂礫が広がっており、一帯は火山ガスのために植物が育たない環境にある[1]。岩石が集積した頂上は高度1580メートルとなる。硫黄の噴気は飯田高原からよく見えるため、高原の人たちは噴気のなびき方で天気の動きを察している[2]

噴火 編集

約5000年前から約1000年間隔で噴火を繰り返している。約1700年前の大規模なマグマ噴火では、火砕流火口から約4km、溶岩流は火口から約2kmまで到達した。有史以降は1662年、1675年、1738年などの記録が残る[3]。近年では1995年に257年ぶりに噴火し、熊本市まで降灰した[4]

総合科学技術会議火山噴火予知計画により「活動的火山及び潜在的爆発活力を有する火山」に指定されており、噴火予報は2007年には「噴火警戒レベル1、平常」と発表された[3]。2011年現在も変更はなく、立入禁止となっている。

硫黄採掘事業 編集

硫黄の採取は大友宗麟南蛮貿易のころに始まったとも言われるが、本格的な採取は江戸時代に始まった。初期の採取法は「掘り硫黄」で、岩石の間から硫黄を掘り起こして取る単純なものだった。「練り硫黄」の手法が生まれてからは、硫気の噴き出す岩間の周囲に石を積み、これをムシロで覆い硫黄を付着させたものが定期的に取り出されていた[2]

1803年(享和3年)の『豊後国志』には「硫黄を多く産出し常に火がある」と書かれている。当時の九重連山は、飯田村側の天領久住側の岡藩領、また肥後藩領に分かれており硫黄山周辺がその境界で、それぞれが取り分を決めて採取していた。硫黄は貴重な産物で、領内にはいずれも修験道の寺院があり山伏も入山していた[2][注釈 1]

1878年(明治11年)頃には日田郡有田村出身の橋爪増太や佐藤善橘が採掘権を得、「九重鉱山」として稼業した[6]。1881年(明治14年)に硫黄の無税輸出が布告され[7][8]、1889年(明治22年)年には、特別輸出港として開港した博多港からも輸出され始めて、硫黄産業は発展した[9]

1896年(明治29年)には、全国的に硫黄の商いをした広海二三郎に採掘権が移り[注釈 2]、広海は1916年には天然硫黄王と呼ばれるようになった[12]。昇華硫黄を煙道に通して凝結させる「誘導法」(シチリア法英語版ともいう。)は生産を急増させ、大正時代から昭和時代にかけては黄金時代となり、採鉱地の北側に精錬所が設けられ、飯田高原に運搬道路が通った[13][注釈 3]。この道路が現在の九州横断道路の基礎となっている[2]

硫黄山では1972年(昭和47年)まで硫黄採掘が行われていたが、以後は本格的な採掘は行われていない[1]

関連画像 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 九州地方は古代から朱砂スサ)の鉱山や山岳信仰があり、福岡県の英彦山神宮(彦山権現)も日本三大修験の霊場として著名であるが、こうした山伏は事実上、鉱脈探索家であったという説もある[5]
  2. ^ 広海時代の事業所の名称や概要には複数の説がある。一説は「九重鉱山」(大分県採登第175号、大分県特許第328号)で鉱業代理人は浜野永次郎、面積は104,000坪(34.38ヘクタール)とし[10]、一説は「九重山鉱業所」、垣内作次郎で26,700坪~36,000坪(約9~12ヘクタール)[11]としている。
  3. ^ 硫黄は肥料や火薬、貨幣の製造に利用されたが、火薬製造については1857年(安政4年)に東京の目黒に幕府の目黒砲薬製造が設置されていた。明治新政府はこれを1879年(明治12年)に日本海軍目黒火薬製造所とした。製造されたダイナマイトは鉱山開発にも利用された(目黒火薬製造所は1893年に日本陸軍東京砲兵工廠に移管)。1905年にはイギリスの3社がイギリスに日本火薬製造(The Japanese Explosives Company Ltd.)を設立し日本海軍と契約して、神奈川県平塚工場が稼働した。製品はイギリス軍にも輸出された(1920年には日本政府が同社を買収し海軍火薬廠となった)。第一次世界大戦後の1916年(大正5年)には東京の丸の内に民間日本企業の日本火薬製造(現・日本化薬)も創設され、朝鮮や台湾にも輸出された。[14]

出典 編集

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集