神田錦町更科

東京都千代田区にあるそば屋

神田錦町更科(かんだにしきちょう さらしな)は、東京都千代田区神田錦町三丁目にある1869年明治2年)創業のそば屋店舗

神田錦町更科
Kanda Nishikicho Sarashina1.JPG
神田錦町更科
(2016年3月1日撮影)
店舗概要
所在地 101-0054
東京都千代田区神田錦町三丁目14番
座標 北緯35度41分37.5秒 東経139度45分42.18秒 / 北緯35.693750度 東経139.7617167度 / 35.693750; 139.7617167 (神田錦町更科)座標: 北緯35度41分37.5秒 東経139度45分42.18秒 / 北緯35.693750度 東経139.7617167度 / 35.693750; 139.7617167 (神田錦町更科)
開業日 月曜 - 金曜日
閉業日 土・日曜日、祝日
施設管理者 四代目 堀井市朗
店舗数 1店舗
営業時間 午前11時 - 午後3時、午後5時 - 午後8時
駐車台数 無し台
前身 神田錦町更科分店
最寄駅 都営新宿線神保町駅小川町駅
東京メトロ半蔵門線神保町駅
東京メトロ千代田線新御茶ノ水駅
最寄IC 首都高速神田橋出入口
外部リンク 神田錦町更科
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概要編集

神田錦町更科は、麻布永坂「更科」(現・更科堀井)の最初の暖簾分けの分店である。更科堀井の創業は1789年寛政元年)、信州出身で信州特産晒布の保科家御用布屋だった八代目清右衛門が、領主保科兵部少輔からそば打ちがうまいのを見込まれ、布屋よりも蕎麦屋の方が良いのではと勧められ、麻布永坂の保科家の江戸屋敷傍に、そば屋「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」を創業したのが始まり。

当初は、大名屋敷寺院などに出入していたが、明治時代半ばの最盛期には、皇室宮家などにも出前を届けた。創業以来、五代目布屋松之助に至るまで、麻布永坂「更科」は一軒も支店を出さなかった。1869年明治2年)、六代目布屋松之助のとき、神田錦町に初代堀井丈太郎「神田錦町分店」を開店した[1]

信濃の国はかつては科(シナ)野の国で、科の木の多いところだった。この木の皮を剥いで縄につくり、布を織ったり、紙をすいたりした。仁科は煮科、保科は穂科、科の花の形容か、更科は晒科の意か、この科の皮は丈夫なので桶のたがにも利用されていた[2]

沿革編集

 
文政7年(1824年)、『江戸買物独案内』、名物そば屋(御膳蕎麦所)より[3]
 
明治10年(1877年)頃、『一億人の昭和史 明治上』、明治10年頃の永坂更科より[4]
 
明治31年(1898年)頃、『永坂町更科蕎麦店の図』(山本松谷画)より[5]
  • 1789年寛政元年) - 堀井家は信州高遠の保科松平家の御用布屋で、信州特産の晒布を持ち保科家の江戸屋敷に出入していた。初代は布屋太兵衛(堀井清助)といい、麻布1番通り竹屋町にある保科家の屋敷の長屋に滞在を許されていた。清助は1693年元禄6年)の秋ここで世を去った。八代目堀井清右衛門(現「更科堀井」初代布屋太兵衛)のとき、御領主からそば打ちがうまいのを見込まれ、布屋よりも蕎麦屋の方が良いのではと勧められ、麻布永坂町の三田稲荷(高稲荷)下に「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」の看板を掲げた[6]
  • 1824年文政7年) - 『江戸買物独案内 飲食之部』、名物そば屋(御膳蕎麦処)、18軒に、「信州 更科蕎麦所 麻布永坂高いなりまえ 布屋太兵衛」が挙げられている[3]
  • 1848年嘉永元年) - 『江戸名物酒飯手引草』には、120軒のそば屋の中の「更科」の屋号6軒中に「更科生そば麻布永坂町布袋屋太兵衛」と誤って挙げられている。
  • 1858年安政6年) - 本店四代目布屋太兵衛没。
  • 1869年明治2年) - 麻布永坂「更科」は神田錦町に初代堀井丈太郎「神田錦町分店」を開店した。創業以来五代目に至るまで、一軒も支店を出していなかった。初代堀井丈太郎は、本店六代目松之助の妹堀井かねとは従兄妹同士の間柄で、丈太郎が堀井かねの婿養子になる形で結婚、分店として出店、屋号は布屋丈太郎であった。一門の古いしきたりで、暖簾分けには分店と支店のふた通りがあった。分店と名乗れるのは本家の子どもが新たに出した店の場合に限られた。
  • 1873年(明治6年) - 本店五代目布屋松之助没。
  • 1875年(明治8年) - 名字必称の令により、屋号「布屋」から「堀井」と改め、六代目堀井松之助となる。
明治31年の麻布永坂町の蕎麦店「更科」[7]
更科といえば、人みな麻布永坂の蕎麦店たるを知る。実に東京に於ける一名物というべし。本店は永坂町13番地に在り、当主を堀井松之助という。

其の製法他店と全く異にして、色白くして細く、一見愛すべし。(中略)、当店は、奥座敷等ありて、通常の店舗と異なり、其の地亦喧雑ならさるを以って、紳士の来たりて賞玩する者多く、帰途は更にミヤゲとして持帰る者少なからず。近来は汽車に搭し、大阪、神戸、須磨、明石等に赴く遊客も亦之を携ふるに至れり。

支店は、神田区錦町5番地と日本橋区三代町4番地とにあり。製法等総て本店に同じ。現店主は、第五代なるよしなれば、ふるくより在りしとは明らかなり。むかしそば切りを以って名高かりしは、麹町のひょうたん屋、洲崎の伊勢屋、浅草の道光庵等なりし。更科の名の聞こえしは、文化文政頃よりならむ。文政の江戸買物帳に、其の名見えたり。 — 新撰東京名所図会、『風俗画報』、麻布区の巻之一、「更科」、明治35年3月31日より抜粋

  • 1893年(明治26年) - 堀井亀雄(後の二代目)生まれる。
  • 1916年大正5年) - 初代堀井丈太郎没。
  • 1923年(大正12年) - 関東大震災により店舗焼失。
  • 1926年(大正15年) - 堀井松太郎(後の三代目)生まれる。松太郎の母寿々(二代目亀雄の妻)は、本店七代目松之助(堀井保)の姉で、いとこ同士で結婚した。松太郎という名は、本店当主松之助の「松」と祖父丈太郎の「太郎」をそれぞれ取ってつけられた。
『食行脚 東京の巻』「更科」奥田優雲華著[8]
麻布永坂の、寂しい大通り、振客の利かぬ、辺僻な場所の、更科本店は、三棟七室の客座敷に、何時も、遠来の客で賑って居る。

表看板の布屋太兵衛は、先祖が履いた、呉服屋の草鞋を、子孫に伝えて忘れぬための、美しい主人の心掛けが窺はれる。蕎麦屋に転業してから、三代八十年、更科蕎麦の盛名は、場末の果まで伝へられ、遍く人口に感謝されている。

宮城を初め各宮家の御用を承り、家門の光り、名聞の誉れに、愈々益々、栄え行く計りだが、営業の方針は、飽くまでも堅実を旨とし、分店を神田に支店を神楽坂、二本榎、品川の三ヶ所に設けて、本店同様、蕎麦当の歓迎を受けて居る。

名物更科蕎麦は、蕎麦粉そのものが、特に限られた産地を、持って居る訳ではなく、亦其の汁に、秘密の製法があるのでもない、要は原料の吟味と、晒粉の精選である、注意深い用意によって、特選せられて居る晒粉は、普通の夫れの様に、製粉所の製品ではなくて、昔の儘の、自家工場特製品である、名物蕎麦の秘訣が、此処に包まれてはいまいか。(店、麻布区永坂町13。電車、飯倉片町下車。電話、青山5692番)

— 『食行脚 東京の巻』、「更科」、大正14年、2016年4月2日より抜粋
  • 1927年昭和2年) - 関東大震災で焼失した店舗が再建される。本店六代目堀井松之助没。
  • 1930年(昭和5年) - 不景気のどん底の年で、更科一門もそばの値段を下げた。この時の麻布永坂「更科」一門は、麻布永坂本店、下谷池之端仲町分店、神田錦町分店、牛込通寺町支店、芝二本榎西町支店、府下品川町歩行新宿支店、京橋区尾張町支店、麹町区有楽町支店の8店だが、尾張町と有楽町は同経営者なので全部で7店で、巷間「更科お七軒様」と呼ばれていた。
  • 1936年(昭和11年) - 本店堀井良造(後の本店八代目)生まれる。
  • 1941年(昭和16年) - 本店七代目堀井保のとき、大正末期から昭和初期にかけての、関東大震災、国内外の金融恐慌、堀井家が出資していた麻布銀行の倒産等の影響により廃業に追い込まれる。本店の廃業とともに、廃業する支店も多く出て、「錦町」と「有楽町」の支店のみとなる。本店危機にさいして、親族、一門が集まった時、血縁関係から錦町が本店を継ぐのが筋ではないかという話も出たが、二代目堀井亀雄は「店は錦町一軒だけで十分」といって断り、本店七代目堀井保の身柄を引取った。
  • 1942年(昭和17年) - 大東亜戦争で永坂の店が焼失、本店の堀井良造と母堀井きん、良造のきょうだい2人で麻布を去る。
  • 1995年(昭和20年)3月 - 東京大空襲により店舗焼失。その後、財産税の徴収に土地を物納したため狭くなった。
  • 1963年(昭和38年) - 堀井市朗(後の四代目)生まれる。
  • 1968年(昭和43年) - 二代目堀井亀雄没。
  • 1997年平成9年) - 二男堀井雄太朗(後の五代目)生まれる。
  • 2001年(平成13年) - 「神田まつや」の小高孝太之、「かんだやぶそば」の堀田康太郎、「神田錦町更科」の堀井雄太朗らと「江戸神田蕎麦の会」を立ち上げる。
  • 2011年(平成23年) - 三代目堀井松太郎没[1]
  • 2016年(平成28年) - 現在、四代目布屋丈太郎(堀井市朗)と五代目布屋丈太郎(堀井雄太朗)の二人で「神田錦町更科」を守っている
「一子相伝の伝承者への道」堀井一朗[9]
商売を長く続けていればいいというだけではありません。商売が繁盛すれば必ず偽物が出てきます。平気な顔をしてウソをつく、マネをする店が出てきます。それらを一つ一つ乗り越えて本物にならなければなりません。ただし、本人の努力だけでは本物にはなれません。 — KANDAルネッサンス、2015年11月25日より一部抜粋

交通アクセス編集

鉄道

ギャラリー編集

脚注編集

  1. ^ a b 『蕎麦屋の系図』、岩崎信也著、「更科の系図」、光文社、2011年7月20日、2016年2月20日閲覧。
  2. ^ 『そば物語』、植原路郎、著井上書房、昭和34年12月1日、2016年2月25日閲覧。
  3. ^ a b 江戸買物独案内 飲食之部』 - 国立国会図書館デジタルコレクション -中川五郎左衛門編、 山城屋左兵衛他、1824年(文政7年)、2016年2月24日閲覧。
  4. ^ 毎日新聞社、2016年2月24日閲覧。看板に「信州更科蕎麦所」とある、前面の道路は「現・麻布通り」、坂の向こうは「現・飯倉片町交差点」。建物は戦災を受け焼失し、現在は「永坂更科布屋太兵衛」の本社(中央ビル)、本社工場2棟が建っている。
  5. ^ 新撰東京名所図会、『風俗画報』、第248号、麻布区の巻之一、「更科」、東陽堂、1902年3月31日、国立国会図書館蔵マイクロフィルム、2016年2月22日閲覧。背景のこんもりした木立は三田稲荷(高稲荷)で、棟が重なり、蔵と門のある屋敷然とした造りであった。明治以降の店は、広い敷地と、店舗のほかにいくつもの家作を所有する大店と発展した。その場所には現在、「永坂更科布屋太兵衛」の本店、本社工場が建っていて、三田稲荷は本社ビル屋上に祀ってある。
  6. ^ 『そば物語』、植原路郎著、井上書房、昭和34年12月1日、2016年2月25日閲覧。将軍家御用を承わり、江戸城中の愛顧を受けていたので、「御前蕎麦」を創製、また、堀井家は仏心厚かったので、増上寺とも誼みが深く、いよいよ繁昌した。
  7. ^ 新撰東京名所図会、『風俗画報』、第248号、麻布区の巻之一、「更科」、東陽堂、1902年(明治35年)3月31日、国立国会図書館蔵マイクロフィルム、2016年2月20日閲覧。
  8. ^ 奥田優雲華著、『食行脚 東京の巻』、「更科」、協文館、1925年(大正14年)、2016年4月2日閲覧。
  9. ^ KANDAルネッサンス、2015年11月25日、2016年3月1日閲覧 - 馬場家「麻布永坂更科本店」と小林家「永坂更科布屋太兵衛」が代表格。

参考文献編集

  • 松本順吉編、『東京名物志 更科』 - 国立国会図書館デジタルコレクション - 公益社、1901年(明治34年)9月29日、2016年2月24日閲覧
  • 行列のできる、『街角うまい店ガイド』、麻布・お台場他、「日本そば更科堀井」、アドメディア、2009年(平成21年)10月

関連項目編集

外部リンク編集