立花 種周(たちばな たねちか)は、筑後国三池藩の第6代藩主

 
立花種周
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 延享元年8月8日1744年9月14日
死没 文化6年10月15日1809年11月22日
改名 勝之助(幼名)、種周
戒名 竜譚院殿寒月紹清大居士
墓所 東京都台東区下谷の広徳寺
官位 従五位下出雲守
幕府 江戸幕府大番頭寺社奉行奏者番若年寄、蝦夷地総監
主君 徳川家治家斉
筑後三池藩
氏族 立花氏
父母 立花長煕堀直英の娘・於豊
兄弟 弥七郎、種周、勝次郎、長堅安部信旨種武堀直皓三宅康武正室ら
正室稲葉正益の娘・於悦
種徳、政之助、豊三郎、種善種道種実堀直興正室、辰姫
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生涯編集

家督相続編集

延享元年(1744年)8月8日、第5代藩主の立花長煕の次男として生またる。長兄の弥七郎が早世したために世子となり、宝暦12年(1762年)9月26日の父の隠居で家督を継いだ。同年12月18日、従五位下、出雲守に叙任した。

藩政においては三池炭鉱の整備、寺社政策などに尽力して藩政の全盛期を築き上げた。

寛政元年(1789年)12月、領内の菩提寺である紹運寺に、藩祖立花直次の顕彰碑を建てた。


幕閣での事跡編集

寛政元年(1789年)6月に幕府大番頭となる。ちなみにこの約2か月前に旗本で分家の立花直敬が江戸城西の丸切手門番頭を辞任している。

寛政4年(1792年)に奏者番寺社奉行、寛政5年(1793年)に若年寄となり、寛政の改革に参与した。寛政11年(1799年)には蝦夷地総監に任じられ、近藤重蔵を登用して国後島択捉島などの探検を支援した。

しかし、幕政改革の一環である大奥の改革をめぐって老中松平定信松平信明派と将軍徳川家斉・大奥などの一橋派が政争を始めると、種周は一橋派に与したが、一橋派は信明らに敗北した。文化2年(1805年)11月19日に若年寄を解任されて失脚し、12月27日には四男の種善に家督を強制的に譲らされた上、蟄居を命じられた。

下手渡への転封編集

その後、立花家は種善の時代に陸奥下手渡藩に左遷されることとなり、種周も下手渡に移ってから間もなくの文化6年(1809年)10月15日に死去した。享年66。

系譜編集

関連項目編集