竹内 正巳(たけうち まさみ、1906年[1] - 1986年7月24日[2])は、日本経済学者。専門は、地域経済論[3]

経歴 編集

兵庫県佐用町出身[4]。大阪府立高津中学校(大阪府立高津高等学校の前身)、高知高等学校高知大学の前身のひとつ)に、いずれも1期生として学び、高知高ではボート部を創設して活躍した[5]1929年京都帝国大学経済学部を卒業[1]。在学中は蜷川虎三ゼミで統計学を学んだ[6]

1930年代はじめから1945年まで、満鉄調査部に勤務し[1]東亜経済調査局の報告書などにもたずさわった[7]。戦後、ソ連によるシベリア抑留を経験する[6]

1950年に帰国し、以降、経済企画庁の前身である経済安定本部勤務[6]、経済審議庁調査官、愛媛県企画室長を経て[1]1954年ころに大阪府立商工経済研究所長[8][9]として大阪へ戻り、近畿開発促進協議会事務局長なども務めた[1]

1965年7月、桃山学院大学教授[1]。桃山学院大学では、産業貿易研究所長などを務めた[6]のち、学園紛争期に学長を務めた[2][5]

1970年、「地域経済の構造と政策」により、大阪市立大学より経済学博士を取得[10]

1975年第8回統一地方選挙に際して行なわれた第8回大阪府知事選挙では、再選を目指す黒田了一知事への対抗馬として日本社会党公明党民社党社公民路線)に推されて出馬したが、結果は黒田知事の再選となった[11]

晩年には、南海道総合研究所所長として活動した[2]

研究 編集

戦後は、中小企業の現場へ実証的な調査に入り、統計的手法も用いながら地域経済政策について、多数の報告、政策提言を行なった[6]

経済地理学者水岡不二雄は、1980年前後に矢田俊文が提唱した地域構造論を批判する中で、1950年代における竹内の業績の先駆性について「竹内氏の所説は、...矢田氏による諸論点をすでにほとんどすべて網羅しているばかりでなく「生活圏地域」の扱い、立地論的説明の努力、地域的不均衡発展論の考慮、政策に対する意識といった点で矢田氏の論点の不十分さを補うものとさえなっている」と極めて高く評価している[3]

おもな業績 編集

単著 編集

共編著 編集

家族 編集

読売新聞記者のジャーナリスト音田昌子は娘である[8]

出典・脚注 編集

  1. ^ a b c d e f 竹内正巳『地域経済の構造と政策』法律文化社、1966年6月20日。  - 著者略歴
  2. ^ a b c “竹内正巳氏死去”. 朝日新聞(夕刊): p. 17. (1986年7月24日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  3. ^ a b 水岡不二雄「矢田俊文氏の『地域構造論』への一視角」『地理』第25巻第7号、古今書院、149-151頁。 
  4. ^ 父の25回忌を前に音田昌子のくらしと文化研究所
  5. ^ a b 金戸述『田毎の月―福祉のこころ』文芸社、2004年10月、318頁。ISBN 978-4835579597 「忘れえぬ人々 竹内正巳先生」pp.157-159。
  6. ^ a b c d e 「満鉄調査部と「地全協」」『経済資料研究』第37号、経済資料協議会、2007年3月、51-55頁。  NAID 120001408868
  7. ^ 統制経済に関する資料 : 未定稿 第2”. 国立国会図書館. 2012年10月17日閲覧。
  8. ^ a b 音田昌子 (2009年5月7日). “運命のめぐり合わせ?”. 音田昌子. 2012年10月17日閲覧。
  9. ^ 大阪府立商工経済研究は、1950年に開設され、1987年に府立産業能率研究所(1925年設置)と統合して府立産業開発研究所となり、2010年に商工労働総務課に統合されて大阪産業経済リサーチセンターとなった。大阪産業経済リサーチセンター(大阪府商工労働部)の調査研究実績”. 大阪府. 2012年10月17日閲覧。
  10. ^ 地域経済の構造と政策 竹内正巳”. 国立国会図書館. 2012年10月17日閲覧。
  11. ^ “民の選択、時代と共に 44年間の知事選史”. 朝日新聞(朝刊). (1991年3月6日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧

関連文献 編集

  • (南海道総合研究所 編)二十一世紀への紀泉地域の展望 : 竹内正己先生遺稿集、南海道総合研究所、1986年
  • (音田昌子 編著)茫洋たる海に似て : 人間主義の開発にかけた竹内正己の軌跡、ブレーンセンター(大阪)、1989年