大阪府立高津高等学校
大阪府立高津高等学校(おおさかふりつ こうづ こうとうがっこう、英: Osaka Prefectural Kozu High School)は、大阪府大阪市天王寺区餌差町にある公立の高等学校。前身は、大正中期1918年に創立した府立第十一中学校(修業5年間の旧制中学校〈男子校〉)。
大阪府立高津高等学校 | |
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(2011年〈平成23年〉3月撮影) | |
過去の名称 |
大阪府立第十一中学校 大阪府立高津中学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 |
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併合学校 | 大阪府立高津夜間中学 |
校訓 | 自由と創造 |
設立年月日 | 1918年(大正7年)3月28日 |
創立記念日 | 4月25日 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 文理学科 |
学期 | 2学期制 |
高校コード | 27144G |
所在地 | 〒543-0016 |
![]() 北緯34度40分10秒 東経135度31分29秒 / 北緯34.66944度 東経135.52472度座標: 北緯34度40分10秒 東経135度31分29秒 / 北緯34.66944度 東経135.52472度 | |
外部リンク | 公式サイト |
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概要編集
大阪府が大正期、中等教育機関の入学難を緩和させるため、新設した旧制中学校5校のひとつ(1918年3月6日の文部省告示第38号で、設置と4月開校を認可[1])。初代校長の三沢糾は「自由と創造」を掲げ、「東の伊藤(東京府立第五中学校)、西の三沢」と称され、大正自由教育運動の象徴の学校とされた。
太平洋戦争後の1948年(昭和23年)学制改革により、新制の高校の大阪府立高津高等学校に改編され、大阪府立清水谷高等学校(旧制の府立清水谷高等女学校)と生徒を交流(入れ替え)して男女共学が実施された。
全日制課程と定時制課程を併設していたが、定時制は1999年3月で廃止された(閉課程)。
普通科の高校だったが、進学指導特色校に指定され改編。2011年(平成23年)度より文理学科が併置された(普通科は2020年〈令和2年〉3月末で廃止)。
なお、2008年に文部科学省スーパーサイエンスハイスクール(SSH)に指定。以後15年間、指定されている(2013年度に第2期5年間、2018年度から第3期5年間の指定[2])。
教育目標編集
教育目標として、「強靭な知性・みずみずしい感性・品格ある人間性」を掲げている[3]。
沿革編集
1918年(大正7年)3月、大阪市北区に設置を認可された大阪府立第十一中学校[1](北野茶屋町の心華小学校を仮校舎)は、4月2日付で設置場所を大阪市東区に変更した(文部省告示第114号4月2日付で位置変更を認可[4])。
翌1919年4月、東区東高津北之町に校舎が竣工して移転(当時の住居表示。現在地)。大阪府立高津中学校と改称(文部省告示第71号3月28日付で4月からの改称を認可[5])。
初の女性教師、NHK朝ドラ化編集
「自由と創造」を掲げる初代校長の三沢糾は、1924年に大阪の府立中学で初めて女性教師3人を採用した。府立清水谷高女から赴任した女性教師の奮闘については、1987年(昭和62年)日本放送協会(NHK)朝の連続テレビ小説『はっさい先生』として放送された(劇中で“(架空の)上本町中学”として登場し、ロケの一部も校舎で行われた)。
戦後1948年の学制改革により、全日制課程と定時制課程に普通科を併置する大阪府立高津高等学校が発足。同年4月28日付で近隣の大阪府立清水谷高等学校(旧制の府立清水谷高等女学校)と生徒・教職員を交流し、男女共学となった。
1956年新入生より、英語科について進度別のクラス編成を行うことにした。しかし反対もあり、1959年に通常のクラス編成へと戻されている。また同時期、選択科目としてドイツ語も開講された。
1969年から1970年にかけて学生運動(学園紛争)の影響を受け、一部生徒が学校を封鎖する騒ぎも何度か発生した。
2009年(平成21年)に大阪府教育委員会の進学指導特色校事業の対象校になり、2011年度より従来の普通科に加えて文理学科を併置した。
初の民間人校長「高津4年制」返上編集
教育課程の運用面では21世紀初頭まで、進度も教え方も「教科によりバラバラ」「センター試験の演習も実施しない」「前時代的」な指導で、土曜の補習も教師の自発性頼み。結果、大学進学実績も低迷し、生徒は卒業後1年間「浪人」するのが当然となり「『高津4年制』と、不名誉な評価を下されるように」なっていた[6]。
2002年(平成16年)に府立高校で初の民間人校長として、住友金属工業子会社の取締役の木村智彦が着任[7]。「現役で進学決定60%」「現役で国公立大学100人合格」「難関国立大学の大阪大学に現役・卒業生の合計で40人」と具体的な数値目標を設定。反発する教師たちに、「校長メッセージと題した文書を頻繁に配付するなど、粘り強く改革方針を伝える」と共に、府教委に働きかけて「全教師が集まることができるよう職員室を新設」した[6]。
高津をはじめ府立の伝統的な進学校は各教科の準備室を教師控室としているため、教師が一堂に会する機会も少なく、異なる教科が何をしているのか分からない状態だった。それが職員室を新設という「画期的な出来事」が発生し「意志疎通が円滑にできるようになった」結果、「一つの目標に向かう集団としての意識」が生まれた。加えて、校外模試や「生徒による授業評価」で生徒や教師の意識を向上させたり、PTA主催で大学見学会を実施させ、国公立大の施設・設備を確認できる機会を設けて保護者の意欲を向上させたりして、結果2005年度の入試では、国公立大の現役での合格者が倍増し117名に達したという[6]。
一方、木村は校長の任期1年を残して2006年(平成18年)3月末、辞職した。木村からパワーハラスメントを受けたとして教諭10人が3月23日、人権救済を大阪弁護士会に申し立てたため、翌24日で辞職願を出していた。木村は就任直後から、学校運営方法に反対した教職員を怒鳴ったり机をたたくなどの威圧的な行動を繰り返し、他校への異動を迫るなど人事権を背景に精神的暴力を加え、鬱病で通院や休職・退職に追い込まれた教職員も複数いたとして、大阪弁護士会は2008年12月26日付で、大阪府教育委員会に対して相談体制の確立や第三者機関の設置など人権侵害発生防止の体制を整えるよう勧告した[8])。
定時制編集
1934年(昭和9年)3月19日、大阪府立高津夜間中学の設置が認可された(文部省告示第107号3月22日付で設置と4月開校を認可[9])。入学資格は高等小学校第2学年を修了程度(14歳)で、修業年限4年間だった。
この併設された夜間中学が戦後1948年の学制改革により、大阪府立高津高等学校定時制課程(夜間)となった。
しかし1995年(平成7年)、大阪府の定時制高校再編策により、高津高校を含む府立高校6校の定時制(高津・市岡・今宮・勝山・守口・佐野)が募集停止となることが発表された。学校関係者は他の対象校の関係者とも連携しながら廃校反対運動を起こしたが、廃校の方針が決まり、1996年以降の新入生募集を停止した。在校生が卒業した1999年3月に廃止(閉課程)となった。
なお、同時期に開設された大阪府立桃谷高等学校定時制課程が、高津・勝山の両校定時制課程の実質的な後継校として位置づけられている。
年表編集
- 1918年(大正7年) - 3月6日、「大阪府立第十一中学校」として創立[1]。4月、開校
- 1919年 - 3月、「大阪府立高津中学校」に改称[5]。4月、大阪市東区東高津北之町に移転(当時の住居表示、現在地[4])
- 1934年(昭和9年)3月19日、「大阪府立高津夜間中学」設置(のちの定時制課程[9]
- 1948年 - 4月、学制改革により新制の「大阪府立高津高等学校」となる。大阪府立清水谷高等学校(旧制の大阪府立清水谷高等女学校)と生徒・教員を入れ替え(半分ずつ交換)し男女共学となる
- 1996年(平成8年) - 定時制課程の募集を停止
- 2002年 - 大阪府教育委員会からエル・ハイスクール事業の指定を受ける(2006年度まで)
- 2004年 - 学校週5日制導入に合わせ、3学期制から2学期制に移行[10])
- 2008年 - 文部科学省のスーパーサイエンスハイスクール(SSH)に指定[2]
- 2011年 - 4月、文理学科を併置
- 2008年 - 文部科学省のスーパーサイエンスハイスクールに再指定(第2期[2])
- 2018年 - 創立100周年記念式典を挙行(大阪府立国際会議場[11])。文部科学省のスーパーサイエンスハイスクールに再々指定(第2期[2])
- 2020年 - 3月末、普通科を廃止(全て文理学科に)
基礎データ編集
交通アクセス編集
- 近鉄(大阪線・難波線)大阪上本町駅より北東へ約800m(徒歩で約9分)
- Osaka Metro(谷町線・千日前線) 谷町九丁目駅より北東へ約850km(徒歩で約11分)
- JR西日本(大阪環状線)・近鉄(大阪線・奈良線)・Osaka Metro(千日前線)鶴橋駅より北西へ約850km(徒歩で約11分)
- Osaka Metro(長堀鶴見緑地線)・JR大阪環状線玉造駅より南西へ約1.2km(徒歩で約17分)
象徴編集
1899年(明治32年)、大阪府が仁徳天皇1500年大祭を高津宮(高津神社)と難波神社で行った際に記念建立した「(難波)高津宮址」碑が、構内に現存する。
なお、難波高津宮は、仁徳天皇が遷した都とされ、大阪市歌の冒頭の「高津宮(たかつのみや)」の起源と伝えられる。
- 校章
校章は旧制中学校の「中」を表す六稜に山桜紋を図案化したデザイン。山桜の花弁5枚は「(大阪市内)第五中学」を表している。
それまで大阪市内の府立中学校は、校章の左右にラインを付して創立順を表していた(天王寺〈二本線=市内第二中学[12]〉、市岡〈三本線=市内第三中学[13]〉、今宮〈四本線=市内第四中学[14]〉)。
なお、校舎の正面に付いている校章も、旧制中学時代のデザイン(「中」の中縁取りを埋めていない)。
- 校歌
校歌は、生徒の大塚善章による作曲(現ジャズピアニスト)で、校歌として珍しく、「朝霧」というタイトルが付けられている。1949年にクラブ活動の硬式野球部が府代表として甲子園の全国大会に出場した際、生徒から募集し投票で決定した[15])。
一番に上町台地の校舎から眺める「山(生駒山)」、二番に校是のキーワード「自由」が愛と平和の間に、そして三番に校章の「星(六稜)・桜」が歌い込まれている。なお高津の校名は、三番になるまで登場しない。旧制高津中学校校歌は、高木及言による作詞、永井巴による作曲。冒頭に「高津宮跡」があるが、やはり校名は歌われていない。
- 校風
- 制服
制服など特に定められておらず、服装は自由。校章も購買で販売されているが着用は自由である。
授業編集
進路指導に力を入れ、生徒に対する進路指導プログラムとして「進路週間」「進路講演会」のほか、進学のための「早朝講習」「土曜講習」、長期休暇中の講習を実施している[要出典]。
「進路週間」では有名な大学・企業の説明会があり、生徒の進路を選択する指針にする。「進路講演会」では社会で活躍する著名なOB・OGが、卒業後の将来について夢を語る。
その他、『体験型進路学習』として1年生次に大阪府内の企業などへの訪問、2年生次に大学の研究室への訪問をし、その内容をプレゼンテーションで発表をするという独自の行事を設けている。
学校行事編集
体育祭と文化祭を合わせて「記念祭」と称している。文化祭の最後に、フォークダンスを踊る会「ファイヤーフォーク」(略してF.F.)でしめくくる。記念祭は長年、秋に実施していたが、熱中症予防の観点から、体育祭を6月、文化祭を9月に行なっている(2017年度から)。
記念祭のほか、年2回、自治会執行部が中心となって校内大会を実施。各クラスにおける討論の結果を反映させ自治会が種目を決定する。当日の運営も自治会の手で行う。
学校施設編集
1922年(大正11年)、大阪府の学校で初の[要出典]鉄筋コンクリート製校舎が竣工。1934年9月21日の室戸台風で木造校舎が倒壊したが、校内での人的被害はなかった。
大戦末期1945年(昭和20年)3月13日深夜から3月14日未明にかけての第一次大阪大空襲で校舎や倉庫などを焼失し、5月22日と6月5日の空襲でも校舎に被害を受けた。被災した校舎は1948年2月に復旧した[15]。
校舎は老朽化に伴い平成時代に建て替え、 1992年(平成4年)に完成した。
- 古代からの都心で文教地区
校地は大阪の古代以来の都心部上町台地にあり、文教地区の天王寺区を象徴するエリアの外れにある。大坂城の南の寺町のひとつ小橋寺町を挟んで東側に大阪市立真田山幼稚園と真田山公園が、北東部に大阪市立真田山小学校と、日本最古の陸軍墓地真田山陸軍墓地と三光神社がある、
北側に明星中学校・高等学校があり、明星の校地は関白(太閤)豊臣秀吉時代(戦国時代)の大坂冬の陣の真田丸跡。
その北側に府立清水谷高等学校があり、前期難波宮の一角(南限)で朱雀大路付近。さらに北側長堀通を挟み私学の大阪女学院の中・高・短・大[16]と城星学園(幼・小・中・高)も位置している。
諸活動編集
自治会活動編集
「自治会」と称する生徒会が、様々な活動をしている。全校生徒により選出される自治会執行部は、自治会の中心として年2回開催される校内大会を運営、部活動の総括等を行っている。
部活動編集
クラブ活動では、硬式野球部が1949年(昭和24年)8月、第31回全国高等学校野球選手権大会に大阪府代表として出場。
高校関係者一覧編集
脚注編集
- ^ a b c 官報大正7年(1918年)3月6日第1675号
- ^ a b c d “スーパーサイエンスハイスクール(SSH)とは” (日本語). 大阪府立高津高等学校. 2020年12月15日閲覧。
- ^ a b “概要” (日本語). 大阪府立高津高等学校. 2020年12月15日閲覧。
- ^ a b 官報大正7年(1918年)4月2日第1697号
- ^ a b 官報大正8年(1919年)3月28日第1993号
- ^ a b c “指導変革の軌跡55 大阪府立高津(こうづ)高校 「学校改革」教師の意識改革で実現した「進学校」としての復活” (日本語). ベネッセ教育総合研究所 (2005年9月1日). 2020年12月15日閲覧。
- ^ “表3 教員出身でない者の校長任用実績一覧:文部科学省” (日本語). 文部科学省 (2005年5月1日). 2020年12月15日閲覧。
- ^ “大阪府立高津高校民間人校長問題:大阪弁護士会が勧告(きょういくブログ 2012/01/14)” (日本語). 宮城県教職員組合 (2012年2月25日). 2020年12月15日閲覧。
- ^ a b 官報昭和9年(1934年)3月23日第2164号
- ^ “KOZU News” (日本語). 大阪府立高津高等学校(インターネットアーカイブ). 2020年12月15日閲覧。
- ^ “沿革” (日本語). 大阪府立高津高等学校. 2020年12月15日閲覧。
- ^ 大阪市内に限れば2番目の創立
- ^ 大阪市内に限れば3番目の創立
- ^ 大阪市内に限れば4番目の創立
- ^ a b “校歌” (日本語). 大阪府立高津高等学校. 2020年12月15日閲覧。
- ^ 大阪女学院中学校・高等学校・大阪女学院短期大学・大阪女学院大学
参考文献編集
- 大阪府立高津高等学校『創立60周年記念』、1978年。
関連項目編集
- 大阪府立清水谷高等学校 - 府立で初の高等女学校。学制改革時の交流先
- 大阪府立池田高等学校 - 府立16番目の旧制中学校(創立前に同名の府立第九中)
- 大阪府立四條畷高等学校 - 府立10番目の旧制中学校
- 旧制中等教育学校の一覧 (大阪府)
- 大阪府高等学校一覧