色部光長
色部 光長(いろべ みつなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。上杉氏の重臣で米沢藩士。越後平林城主、次いで出羽金山城主。色部長実の子。母は新発田綱貞の娘。色部勝長の孫にあたる。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正15年(1587年) |
死没 | 寛永17年6月2日(1640年7月20日) |
改名 | 龍松丸(幼名)、綱長→光長 |
別名 | 通称:与三郎 |
戒名 | 光雲一透院殿関叟明三大居士 |
墓所 | 山形県米沢市窪田町窪田 千眼寺 |
官位 | 修理亮、長門守 |
主君 | 上杉景勝、定勝 |
藩 | 出羽米沢藩士 |
氏族 | 色部氏 |
父母 | 父:色部長真、母:新発田綱貞娘 |
兄弟 | 光長、女子 |
妻 | 正室:樋口兼豊次女(直江兼続次女とも[1]) |
子 | 養子:利長(安田俊広次男) |
生涯
編集天正15年(1587年)に上杉氏の重臣で越後国岩船郡小泉庄平林村(新潟県村上市平林)の平林城主であった色部長真の嫡男として生まれる。文禄元年(1592年)に父・長真が死去したため、幼少で家督を継ぐ。長真の遺言に従って直江兼続の妹(兼続の次女とも)を正室に迎え、元服するまでは後見人となった兼続の助けを借りて家中を治める。
慶長3年(1598年)の会津移封で出羽国置賜郡(山形県南陽市)の金山城主となり、慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦では先陣を任されている。上杉家減封後は置賜郡窪田村(山形県米沢市窪田町)を知行とする。慶長7年(1602年)に元服し、兼続から「綱」の字を貰い綱長と名乗る[2]が、後に改名する。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に従軍。寛永元年1月15日(1624年3月4日)に長門守となり、寛永3年(1626年)11月に侍頭に就任する。寛永17年6月2日(1640年7月20日)没、享年54。家督は養子・利長が相続した。
兼続は光長の後ろ盾として色部氏を重用し、兼続死後も幕末に至るまで、色部氏は米沢藩の重臣として藩を支えていくことになる。子孫に赤穂事件(忠臣蔵)の時に江戸家老を務めていた色部安長(又四郎)や上杉鷹山の藩政改革の折に七家騒動で処分された色部照長(典膳、のち修理)、戊辰戦争の時に米沢藩総督を勤め新潟で戦死した色部久長(長門)らがいる。(養子等による家督相続も挟まれている為、直接の血縁では無い)
人物・逸話
編集脚注
編集参考文献
編集- 『神林村誌 通史編』(1985年)
- 『神林村誌 資料編 上巻』(1982年)
- 『色部史料集』井上鋭夫(新潟史学会、1968年)
- 『越後国人領主 色部氏史料集』田島光男(神林村教育委員会、1979年)
- 『本庄氏と色部氏』渡辺三省(村上郷土研究グループ、1987年)