荒尾 精(あらお せい、安政6年6月25日1859年7月24日) - 1896年明治29年)10月30日)は、日本の陸軍軍人日清貿易研究所の設立者。日清戦争の最中、「対清意見」「対清弁妄」を著し、清国に対する領土割譲要求に反対した。日中提携によるアジア保全を唱えた明治の先覚者である。

荒尾 精
荒尾精
生誕 1859年7月24日
死没 (1896-10-30) 1896年10月30日(37歳没)
台湾
所属組織  大日本帝国陸軍漢口楽善堂、日清貿易研究所
軍歴 1882年 - 1893年
最終階級 陸軍大尉
墓所 谷中全生庵
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東方斎荒尾精先生の碑、京都市左京区熊野若王子神社前、寓居近くの地
東方斎荒尾精先生の碑、説明文

経歴

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尾張藩士・荒尾義済の長男として尾張国琵琶島に[1]生まれる[2]。幼名は一太郎、本名は義行、後に東方斎と号した。

1878年(明治11年)、陸軍教導団砲兵科に入学。さらに陸軍士官学校に入り、熊本歩兵連隊に赴任。1882年(明治15年)12月に同校(旧第5期)卒業後は、歩兵第13連隊付となる。1885年(明治18年)、陸軍参謀本部支那部付けになった。1886年(明治19年)、参謀本部の命を受け、情報収集のために中国()に赴任。岸田吟香の援助を受けて漢口楽善堂を運営、大陸調査活動の拠点とした。1889年(明治22年)、漢口楽善堂の活動を終え、帰国。2万6千余字からなる「復命書(報告書)」を参謀本部に提出した [3]

1890年(明治23年)9月、上海日清貿易研究所を設立し、日中貿易実務担当者の育成に着手。日清貿易研究所は彼の死後設立された東亜同文書院の前身となった。

1893年(明治26年)7月、予備役に編入となる。

1896年(明治29年)9月、台湾ペストにかかり死去。

1915年(大正4年)、従五位を追贈された[4]

頭山満の荒尾評

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玄洋社頭山満は荒尾の死後次のように語った[5]

余は大に荒尾に惚れて居った、諺に五百年に一度は天偉人をこの世に下すと云うとあり、常時最も偉人を憶うの時に荒尾を得たのであるから、この人は天が下せし偉人その人ならんと信ぜし位に、敬慕して居った。

彼の事業は皆その至誠より発し、天下の安危を以って独り自ら任じ、日夜孜々としてその心身を労し、多大の困難辛苦を嘗め、益々その志を励まし、その信ずる道を楽しみ、毫も一身一家の私事を顧みず、全力を傾倒して東方大局のため蓋くせし報公献身の精紳に至っては、実に敬服の外なく、感謝に堪へざる所であって、世の功名利慾を主とし、区々たる小得喪に齷齪(あくせく)する輩と、全くその選を異にし、誠に偉人の器を具え大西郷以後の人傑たるを失わなかった。   

彼の徳望、識見、容貌、何れも偉人の風格を存し、凛乎たる威風の裡に、一種云う可からざる柔和にして、かつよく人を安んじ、人を魅するの魔力を持って居った。この人ならば 必然東亜の大計を定め、醇乎としてその主義を世界に普及し、頗る後世を益するの鴻業を成し遂げ得ぺしと信じて居った。然るに絶大の抱負経綸を有し、徳望識見共に超凡絶群なるこの人にして、中途に逝去せんとは、実に思い設けざる所であった。彼の死するや、根津は余に書を送り、この時においてこの英傑を奪い去るとは、天は何の意ぞと、非常に痛恨の意を洩したが、余も畢生の恨事として真に同情に堪えなかった。余荒尾を信じ、かつ敬慕したるは、実にこの位であった。

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荒尾の崇敬して居った人物は、三代頃の人物では夏の禹王抔を慕い、日本では南洲を敬慕して居った。

著作

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脚注

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  1. ^ 井上雅二『巨人荒尾精』佐久良書房、1910年,近代デジタルライブラリー 現在の名古屋市西区枇杷島
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 57頁。
  3. ^ 社団法人滬友会、東亜同文書院大学史、興学社
  4. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.37
  5. ^ 井上雅二『巨人荒尾精』佐久良書房、1910年,近代デジタルライブラリー

参考文献

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  • 小山一郎『東亜先覚荒尾精』東亜同文会、1938年。全国書誌番号:46065342 
  • 井上雅二『巨人荒尾精』佐久良書房、1910年。全国書誌番号:61001212 

関連項目

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