蓮玉庵
蓮玉庵(れんぎょくあん)は、東京都台東区上野二丁目にある江戸時代後期に創業のそば屋。
蓮玉庵 | |
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店舗概要 | |
所在地 |
〒110-0005 東京都台東区上野二丁目8番7号 |
座標 | 北緯35度42分33.48秒 東経139度46分21.4秒 / 北緯35.7093000度 東経139.772611度座標: 北緯35度42分33.48秒 東経139度46分21.4秒 / 北緯35.7093000度 東経139.772611度 |
開業日 | 火曜 - 日曜日、祝日、祝前日 |
閉業日 | 月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日に振替) |
施設管理者 | 有限会社蓮玉庵 |
営業時間 |
午前11時30分 - 午後7時30分 (中休み 午後3時30分 午後5時) |
駐車台数 | 0台 |
最寄駅 |
JR山手線上野駅 JR京浜東北線上野駅 京成本線京成上野駅 都営大江戸線上野御徒町駅 東京メトロ千代田線湯島駅 東京メトロ銀座線上野駅 |
最寄IC | 首都高速都心環状線神田橋出入口 |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
種類 | 特例有限会社 |
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本社所在地 |
日本 〒110-0005 東京都台東区上野2丁目8番7号 |
業種 | 小売業 |
法人番号 | 4010502013593 |
事業内容 | そば店の運営 |
概要
編集1859年(安政6年)、出身が信州伊那谷の久保田八十八が、現在地とは違う池之端沿いに、そば屋「蓮玉庵」を創業したのが始まり。江戸幕末に、著述家・斉藤月岑(享和4年-明治11年)が、『江戸名所図会』など日常茶飯事を生涯にわたって綴ったものの中に「蓮玉庵」が出てくる。斉藤月岑は当時、江戸神田で名主と著述家の二足のワラジをはいた趣味人で、蕎麦にも薀蓄があった。その番頭格に久保田八十八がいて、茶の湯、俳諧をし、大の蕎麦好きだったため、蕎麦の店を出すことになった、これが蓮玉庵の始まり[1]。
「蓮玉庵」の店名の由来は、風流人だった久保田八十八が店を開く前の夏に、不忍池の蓮の花を見に行って、蓮の大きな葉に朝露がきれいな玉となって朝日に輝いていたのを間近にして、その美しさに感動して「蓮玉庵」という店名が思い浮かんで屋号とした。上野、根津、池之端など、土地柄、創業時から文人・歌人客が多く訪れた。
沿革
編集- 1859年(安政6年) - 信州出身の久保田八十八が現在地に、そば屋「蓮玉庵」として創業。「蓮玉庵」は創業1859年(安政6年)としているが、1925年(大正14年)出版された『食行脚 東京の巻』によれば、創業1862年(文久2年)と記されている。相違しているが、いずれにしても江戸時代後期の創業である。
- 年代不詳 - 久保田八十八は官吏のため、店の切り盛りも思うに任せず、友人の数奇屋町で金物を商っていた澤島佐助に店を譲った。「蓮玉庵」二代目・澤島佐助となる[1]。
- 1869年(明治2年) - 二代目・澤島佐助が50歳で亡くなる。妻やすは店を一手に引き受け、娘ひさ意外、自分の子は里子に出した。
- 年代不詳 - 娘ひさは、宝飾品を商っていた玉宝堂の息子を婿にもらい、三代目・澤島鈴吉が継ぐが、後に、鈴吉は道楽者だったので家から追い出し縁を切った[1]。
- 1878年(明治11年) - 娘ひさと鈴吉の間に忠吉(後の四代目)が生まれる。
- 1890年(明治23年) - 上野公園(現・上野水上動物園)で、第三回勧業博覧会が開催され、飲食店として「蓮玉案」と「蔦屋藪蕎麦」が出店した[1]。
- 1920年(大正9年) - 二代目・澤島やすが89歳で亡くなる。店の切り盛りは、娘のひさと息子の四代目・澤島忠吉、後妻の千代、息子の健太郎(後の五代目)が暖簾を守った[1]。
- 1923年(大正12年) - 店舗を新築、2階建、建坪45坪で、総経費は18,399円と巨額。だが、関東大震災で新築早々の店が焼失した。敷地が借地だったため借地権を失い、新たに借り直し店舗を建築した[1]。
- 1925年(大正14年) - 『食行脚 東京の巻』、奥田謙二郎著、「蓮玉庵」には次のように記されている[2]。
上野の森を中心にした、幕末の江戸動乱で、池の端から黒門長辺りの一帯は、戦塵の巷となり、矢玉は民家に雨霰と落ちて、呪はしい兵燹は各所に起こった。文久2年の創業から、池の端に店を構へたる蓮玉庵も、不幸にしてまた此の兵火に焼失した。
昔から原料の精選には、注意を怠らなかった、鰹節も薩摩か土佐の上ものを使ひ、醤油は野田の上十、味淋は萬上と言った調子で、殊に当今、名ある蕎麦屋ですら、機械蕎麦を用ひて居る時節に、此店は昔変らぬ手打蕎麦の味を残している、機械では経済に、多量生産の利益を見るけれども、手打ちのやうに練りが利かず、自然、饂飩粉も沢山入れねば、足がつきかねて切れやすい。
麻布永坂の更科では、店口の客には二番挽きの晒粉、奥座敷の客には、一番挽きの晒粉を振向け、蓮玉では内客には一番挽き、出前に二番挽きを当てて居るとの噂を聞くが、兎に角、更科は蕎麦が細く、蓮玉はやや太目に出来ている。 — 『食行脚 東京の巻』、奥田謙二郎著、「蓮玉庵」、大正14年7月より抜粋
- 1942年(昭和17年) - ひさが91歳で亡くなる。
- 1943年(昭和18年) - 企業整理法により廃業を決意する。五代目・澤島健太郎の妻富の実家である三浦市に疎開した。
- 1949年(昭和24年) - 戦争が終わり、東京に戻り、翌年、店を借り、再び「蓮玉庵」の暖簾を出す[1]。
- 1954年(昭和29年) - 現在の仲町通りに引っ越し、新築し開業。
- 1959年(昭和34年) - 『そば物語』、植原路郎著、「そば・江戸から東京へ」には次のように記されている[3]。
- 1977年(昭和52年) - 『うどんのぬき湯』、堀田勝三著、「移りゆく盛り場 池の端界隈」には次のように記されている[4]。
お山寛永寺、谷中、蓮玉、無極、団子坂藪蕎麦、入谷の朝顔、不忍の蓮見(否、蓮の花の開く音を聞くこと。)世は太平であった。笹の雪か、揚出しか、一層くだけて羽二重団子でつけ焼でパイ一か。割烹鴦春亭の傍のそば屋ではそばずしを昔売っておったそうだから、そばずしは相当古くからあったものらしい。七、八十年前かも知れない。(中略)谷中上野附近はお寺の坊さん関係で、有名なそば屋が出来上がったのである。無極庵は早くそば屋を止めたからそれは知らないが、無極の名は現存しているようだ。蓮玉庵はなんといっても歴史的からみても有名そば店の横綱格である。
— 『うどんのぬき湯』、堀田勝三著、「移りゆく盛り場 池の端界隈」、昭和52年より抜粋
- 2016年(平成28年) - 現在、六代目・澤島孝夫が「蓮玉庵」の暖簾を受継いでいる。
訪れた文人・歌人
編集交通アクセス
編集- 鉄道
ギャラリー
編集-
店舗入口回りを見る(2016年4月9日撮影)
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「古式せいろそば 別打ち入り三枚重ね、せいろ、桜切り」(2016年4月9日撮影)
脚注
編集参考文献
編集- 『そばや』建築写真文庫・第95、「蓮玉庵」、彰国社、1959年(昭和34年)
- 『味の東京百点』「蓮玉庵」、大沢雄吉著、七洋社、1959年(昭和34年)
- 『昼下がりに老舗で憩う』大谷浩己著、東京人、特集 そば 江戸東京で味わう、並木藪蕎麦、赤坂砂場、神田まつや、九段一茶庵本店、総本家更科堀井、川むら、2008年(平成20年)11月
- 『蕎麦の極意 池之端・蓮玉庵主人が語る江戸の粋・東京の味』澤島孝夫著、実業之日本社、2008年(平成20年)
- 『蕎麦屋の系図』岩崎信也著、光文社、2011年(平成23年)7月20日
- 『名作 名食(12)森鴎外『雁』蓮玉庵(東京・上野)』「蓮玉庵」、山内宏泰著、文芸春秋、2013年(平成25年)6月