メインメニューを開く
鈴本演芸場(2009年)
鈴本演芸場 正面入口(2006年9月12日)
地図

鈴本演芸場(すずもとえんげいじょう)は、東京都台東区上野二丁目上野鈴本ビルにある寄席

都内にある落語定席の一つであり、落語を中心に色物芸も多数上演する。他の寄席とは違い、落語協会所属の芸人しか出演できない。

目次

概要編集

外観編集

  • 上野広小路に面する。入居するビルは保有物件である。
  • 一階入り口にある切符売り場の上が太鼓櫓になっている。前座が開演前の呼び出し太鼓、終演後の追い出し太鼓を、この太鼓櫓で叩く様子を見ることができる。

内部編集

  • 座席数285。すべて椅子席、飲食用テーブル付属。
  • 2Fに自動販売機(酒あり)、3Fが客席と売店。4Fがお手洗い。
  • エレベーター(1基のみ)で行き来ができる。
  • 1Fと3Fを結ぶエスカレーターがある。開場時には上りに、終演後は下りとなる。

興行編集

  • 通常興行は全席自由席。入れ替え制。
  • 特別興行では全席座席指定。チケットぴあで前売りされる。
  • 正月・お盆などは特別企画・特別興行となる。
  • 通常は落語協会の芸人だけで興行を打っている。2006年4月には「桂三枝 鈴本初お目見え興行」を行ったが、2018年現在、落語協会以外の芸人が舞台に上がることはほとんどない。

番組編集

毎月10日ごとに出演者・演目が入れ替えられている。

  • 上席(かみせき)1日~10日
  • 中席(なかせき)11日~20日
  • 下席(しもせき)21日~30日

早朝寄席編集

落語協会の二つ目が出演。自主興行で運営され、日曜日に開催。10時開演、11:30前後終了。入場料500円。一回の開催で二つ目の落語家が4人上がる。建物管理の都合上[1]、2018年9月30日をもっていったん休止となっている[2]

他協会との関係編集

都内の他の寄席(新宿末広亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場)と違い、落語芸術協会の興行は行われていない。以前は他の寄席と同様に落語協会と交代で興行を行っていたが、興行成績不振のため落語協会と合同での番組編成を席亭が提案したところ確執が生じ、1984年9月以降出演していない。以降、実質的には落語協会専属の寄席となっている。

また、五代目圓楽一門会、落語立川流の落語家の例外的な出演(通常の寄席(落語定席)には出演できないかわりに、他の協会の興行に組み込まれたり、余一会には出演できるなど)も、鈴本演芸場は一切認めていない[3][4]。たとえば、年に数回余一会で行われている「落語教育委員会」の新メンバーに選ばれた圓楽一門会所属の三遊亭兼好が鈴本演芸場には出演できないため、同演芸場で行われる落語教育委員会の興行には必ず、落語協会所属の落語家をゲストで出演させている

通常興行の料金編集

  • 一般 2800円
  • 学生 2400円(中学生以上。大学や専門学校もすべて含む。ただし24歳まで)
  • シニア 2400円(65歳以上)
  • 小人 1500円(3歳以上)
  • 全席自由席

(いずれも、2005年6月現在)

歴史編集

江戸期・安政四年(1857年)、軍談本牧亭が上野広小路に開設された。創業者は現席亭の祖先で、三代目本牧屋仙之助(またの名を龍助)という。明治維新後に平民苗字必称義務令が出ると、龍助を含む一族は鈴木姓を名乗った。

しかし、住民の宗教信者によるお題目の大声唱が場内にまで響き、営業の支障になった。初代席亭は一計を案じて「本牧亭」を閉鎖し、別の落語・色物の席を造った。席の名称は木と牧を合せて、「鈴本亭」とした。関東大震災後に現在地に移転。

鈴本演芸場」への改称時期は不明だが、

  • 「東京演芸場組合員名簿」(1926年)には「鈴本亭」の記述がある。
  • 1952年6月のプログラム[5]には「上野鈴本演藝場番組」としてある。
  • 1953年に戦災による焼失から再建された宗吾殿台東区寿)の石柵に彫り込まれた寄進者の名前の中には複数の演芸場や演芸関係者の名前が散見されるが、その中の一柱に「上野鈴本亭」としてある。

上記の資料によれば、戦後の改称と推察できるが確実な時期の確定は不可能。

主な出来事 編集

  • 1945年 東京大空襲で焼失。中央通りをはさんだ現在地の向かい側で屋根無しのよしず張りで仮営業し、その間に現在地に再建(椅子席で二階は桟敷)。
  • 1950年 3月 当時の当席三代目席亭鈴木孝一郎が本牧亭を復興させ、三女の石井英子(前出の清水孝子はその長女)にその運営を任せた(1948年から仮営業していた)。
  • 1951年頃 火災の為焼失。現在地に再建。
  • 1971年 全面的に立て替えて、現在の近代的なビル建築の寄席となった(いわゆる寄席では初めて。三階、四階が寄席)。
  • 1984年 落語芸術協会と絶縁。以後、落語協会の興行のみとなる。
  • 2003年11月 5階・テナントフロアにて火災が発生、1人死亡。翌年3月まで休業した。
  • 2007年 150周年を迎え、1月31日に東京會舘にて記念パーティが行われた。この席上で、席亭が2001年に死去した古今亭志ん朝から「古今亭志ん生」の名跡を預かっていると発言した[6]
  • 2012年8月 ももいろクローバーZが「桃黒亭一門」と名乗って鈴本演芸場に出演し、落語を織り込んだ楽曲「ニッポン笑顔百景」を披露した[7]。歌手としては過去にディック・ミネが出演しており[8]、報道で謳われていた「歌手として初めての出演」は誤りである。
  • 2012年12月 2011年の10月、1970年のビル建替工事から行方不明になっていた高座用のついたてを先代席亭の17回忌法要の時に入谷・正洞院にて当代席亭が発見。寄席も寺も代替わりをして、寺についたてが存在する事実と理由をそれぞれ知らずにいた。寺から快諾を得てついたては返還、この年の12月上席から41年ぶりに高座に置かれるようになった。ついたての絵の作者は歌舞伎絵看板師の鳥居忠雅[9]

アクセス編集

その他編集

  • 当演芸場のウェブサイトのアドレスは「rakugo.or.jp」を使用している。都内の寄席4席では唯一、公式サイトのアドレスに建物名を使用していない。
  • 出演者名の木戸札とめくりを書いているのは、寄席文字橘流の橘右橘[10]
  • 2011年、ユニクロとの企業コラボとして鈴本演芸場Tシャツ(メンズサイズ)を全国のユニクロ店舗で発売[11]。色は紺とオリーブ(上野のユニクロ2店限定色)[12]。演芸場でのTシャツの販売はなかったが、同年5月から9月までコラボTシャツで来場した観客対象の割引を実施した[12]
  • 2019年NHK大河ドラマいだてん ~東京オリムピック噺~」第22回「ヴィーナスの誕生」に、三代目席亭の鈴木孝一郎が登場した[13]。演じたのは中村育二

出典編集

  1. ^ 佐藤友美, ed (平成30年8月28日). 一行情報. 東京かわら版 2018年9月号. p. 88. 
  2. ^ どかん(@docan_28)”. twitter (2018年11月25日). 2019年2月28日閲覧。 “鈴本演芸場でいつもの…と思ったら、やらなくなってしまったのか、早朝寄席…。残念だなぁ…。(鈴本演芸場入口の告知チラシの写真あり)”
  3. ^ 桂才賀の共演者として、立川左談次落語立川流)が登場している。詳しくは立川左談次の項を参照。
  4. ^ ただし、上方落語協会所属の落語家は余一会などに出演がある。
  5. ^ 噺家 桂伸治オフィシャルサイト 51年前のプログラム掲載。2017年3月4日閲覧。
  6. ^ 佐藤友美, ed (平成19年2月28日). 足でかせぐ:鈴本演芸場開席百五十年記念祝賀パーティー. 東京かわら版 平成19年3月号. p. 29. 
  7. ^ 桃黒亭一門が鈴本演芸場にサプライズゲスト出演、新曲「ニッポン笑顔百景」熱唱”. Musicman-NET (2012年8月31日). 2012年9月2日閲覧。
  8. ^ 『談志百選』30頁。出演した年月日は不詳だが、落語協会に所属していた頃の立川談志との二人会に出演した。バックバンドは薗田憲一とデキシーキングス
  9. ^ 鈴本演芸場のついたてが41年ぶりに復活-入谷の寺で発見”. 上野経済新聞. みんなの経済新聞ネットワーク (2013年2月15日). 2019年5月5日閲覧。
  10. ^ 寄席・落語豆知識/寄席文字”. 鈴本演芸場公式サイト. 鈴本演芸場. 2019年5月5日閲覧。 “当席の木戸にある出演者の木札やめくりを書いてもらっている橘右橘(たちばなうきつ)師匠”
  11. ^ ユニクロ、企業とのコラボTシャツ2011年版を3月から発売 - 67社が参加”. マイナビニュース 企業IT. マイナビ (2011年1月17日). 2019年6月15日閲覧。
  12. ^ a b 柳家ほたる (2011年5月5日). “鈴本演芸場×ユニクロ。”. 柳家ほたるの妖怪道中記. yaplog. 2019年6月15日閲覧。
  13. ^ オープニングのキャスト紹介では「席亭」。本編中で「上野鈴本亭 席亭 鈴木孝一郎」とテロップが出た。

参考文献編集

  • 小島貞二『寄席の系図』 - 事実上の公式社史。高層ビルへの建て替えを記念して編纂
  • 渡辺武男『「大塚鈴本」は燃えていた』~元上野鈴本総支配人伊藤光雄の仕事~
  • 山口正二『聞書き五代目古今亭今輔ISBN 9784790502906

当時の当席三代目席亭鈴木孝一郎は養子であり、五代目古今亭今輔(のち日本芸術協会会長)の親戚であった。今輔は落語革新派壊滅の後、鈴本で働いていたことがある。ただし寄席や芸事で働いていたわけではない。両著を読み比べると、終戦直後の鈴本が何で食べていたかはっきりと理解できる。

関連項目編集

外部リンク編集