一条能保

平安時代末期から鎌倉時代前期の公卿。藤原通重の長男。検非違使別当、従二位・権中納言。鎌倉幕府 京都守護。中御門流一条家2代。子に能性(母は仁操(僧都)の娘、仁和寺、法印)-乗
藤原能保から転送)

一条 能保(いちじょう よしやす)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿藤原北家中御門流藤原通重の長男[1]。一条二位入道と号す。

 
一条能保
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 久安3年(1147年
死没 建久8年10月13日1197年11月23日
改名 能保、保蓮
官位 検非違使別当従二位権中納言
主君 近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇
氏族 一条家藤原北家中御門流
父母 父:藤原通重、母:徳大寺公能の娘
坊門姫源義朝の娘)
江口の遊女慈氏
藤原有恒の娘
高能信能実雅尊長中院通方室、西園寺公経室、九条良経
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生涯 編集

父方の祖母は後白河法皇の同母姉の上西門院乳母の一条で、能保は後白河法皇や上西門院に近い立場にあった。また、母は当時の宮中で勢力を保っていた閑院流徳大寺公能の娘であった。

3歳で父が死没し[2]、以後は祖母に育てられ、後にその一条室町邸を譲り受けた。仁平3年(1153年)上西門院御給により叙爵、保元2年(1157年)11歳にして丹波守に任官される。しかし僅か一年で任を解かれ、暫くの間は国司に任官されなかった。

その後は母方の縁に連なる徳大寺家出身の太皇太后藤原多子に太皇太后宮権亮として仕え、この時期は徳大寺家や上西門院に近い存在であったが、官職には恵まれていなかった。この間に源義朝の娘で源頼朝の同母姉妹である坊門姫を妻に迎えている。なお、頼朝及び坊門姫の母方・熱田大宮司家も同様に上西門院に近い存在であることが指摘されている。

治承4年(1180年)、治承・寿永の乱が勃発。乱の初期においての能保の動向は明らかではないが、木曾義仲の勢力下にあった寿永2年(1183年)頃、その圧迫を逃れて東国に下ったとされ(『愚管抄』)、また元暦元年(1184年)には平頼盛などとともに鎌倉に滞在していたという[注釈 1]

平氏が滅び、頼朝が新たな権力者となると、妻の縁により頼朝から全幅の信頼を寄せられるようになる[注釈 2]。頼朝にとっては、存命の同母兄弟姉妹は能保の妻である坊門姫だけだったのである(同母弟の希義は戦死、範頼義経は異母弟)。その結果、頼朝の威光を背景に、讃岐守左馬頭右兵衛督参議・左兵衛督・検非違使別当[注釈 3]権中納言従二位と異例の栄進をする。また、頼朝の父の菩提寺勝長寿院の造営に際しては、頼朝とともに造営の下見をしたり、同寺院の落成式には妻とともに参列している。その後、再び都に戻り北条時政の後任として京都守護となり、頼朝と対立した源義経やその係累の捜索の指揮を取った。

能保自身は後白河法皇に仕えて重用され、妻や娘の保子(花山院忠経の妻、母は坊門姫)は後鳥羽天皇の乳母となった。また九条良経九条兼実の子)や西園寺公経を娘と娶わせ、花山院兼雅土御門通親とも姻戚関係を結ぶなど、朝廷と幕府の双方に広い人脈を形成した。しかし、建久2年(1191年)4月の延暦寺の強訴では内裏防御に失敗し、就任したばかりの検非違使別当を辞任している(建久二年の強訴[注釈 4]。さらに急激な台頭に対する有力公家の反感も強く、同じ親頼朝派であった九条兼実とは不仲であった[注釈 5]。このため、土御門通親と九条兼実が対立した建久七年の政変では通親を支持したとされている。

建久5年(1194年)8月、病に倒れて出家し、保蓮と号した。建久8年(1197年)10月13日、51歳で薨去。

なお、鎌倉幕府4代将軍・九条頼経は、頼朝の同母姉妹(能保の妻)の曾孫であることを理由に将軍に擁立された。

系譜 編集

関連作品 編集

テレビドラマ

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 玉葉』寿永2年(1183年)11月6日条には「能保悪禅師の家に宿すと云々。頼朝の居を去ること一町許りと云々」とあり、能保の滞在先は阿野全成(頼朝の異母弟)の邸だったという。
  2. ^ 文治元年(1185年)の頼朝追討宣旨発給の経緯について能保は「都人の伝言」として頼朝に報告しているが、その情報は後白河院の諮問に対する藤原経宗・九条兼実・徳大寺実定吉田経房の奏上内容や院近臣の動向に触れるなど極めて詳細なものだった(『吾妻鏡』11月10日条)。能保が鎌倉にいながら朝廷中枢に関わる情報を得られた理由について、佐伯智広は能保の母が徳大寺公能の娘であることから、実定が表向きは追討宣旨発給に賛同しながら、密かに甥の能保と通じていたのではないかと推測している。議奏指名後に実定が越前国、弟の実家が美作国を知行国として獲得しているのは、情報提供に対する報奨とも考えられる[3]
  3. ^ 建久2年(1191年)3月22日の建久新制により頼朝の諸国守護権が公式に認められたが、能保が検非違使別当に、大江広元が検非違使庁の法曹部門を担当する明法博士に就任したのはこの前後であり、頼朝が在京武力掌握のために検非違使庁を幕府の管理下に置く構想を抱いていたとする見解がある[3]
  4. ^ この強訴防御では実働部隊の廷尉を動員できず、北条時定が現場から離脱、安田義定も能保の命令に不満を述べている。佐伯智広は能保の指揮能力欠如を指摘している[3]
  5. ^ 能保と兼実の対立は、建久2年(1191年)6月の能保の娘と兼実の子の九条良経の婚姻を巡るトラブルより顕著になり始め、同年11月の除目における高能の中将昇進、建久6年(1195年)正月の尊長の僧綱昇進がともに兼実の「身分不相応」との主張によって見送られ(ともに『玉葉』)、更に能保が源頼朝の娘大姫の入内計画に加担すると、対立は決定的となった[4]

出典 編集

  1. ^ 三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典』上田正昭ほか監修(第5版)、三省堂、2009年、123頁。 
  2. ^ 本朝世紀』久安5年(1149年)8月1日条
  3. ^ a b c 佐伯智広「一条能保と鎌倉初期公武関係」『古代文化』第564号、古代学協会、2006年。 
  4. ^ 塩原浩 著「宗公孫一条家の消長 -中世前期における一公卿家の繁栄と衰退-」、中野英夫 編『日本中世の政治と社会』吉川弘文館、2003年。ISBN 978-4-642-02829-5 
  5. ^ 『尊卑分脈』による。但し、円助法親王は1256年生まれとされるため、年代的に不自然。
先代
一条通重
一条家
第2代
次代
一条高能