楓 (松型駆逐艦)
楓(かえで / かへで)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。松型(丁型)の17番艦。日本海軍の艦名としては2代目(初代は二等駆逐艦樺型駆逐艦3番艦「楓」)である。丁型一等駆逐艦第5505号艦として横須賀海軍工廠で建造された。
楓 | |
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基本情報 | |
建造所 | 横須賀海軍工廠 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
級名 | 松型駆逐艦 |
艦歴 | |
発注 | 1942年戦時建造補充(改⑤)追加計画 |
起工 | 1944年3月4日 |
進水 | 1944年7月25日 |
竣工 | 1944年10月30日 |
除籍 | 1945年10月5日 |
その後 | 1947年7月6日、中華民国へ引渡し「衡陽」となる。1960年に除籍後、解体。 |
要目 | |
基準排水量 | 1,262t |
公試排水量 | 1,530t |
全長 | 100.00m |
最大幅 | 9.35m |
吃水 | 3.30m |
ボイラー | ロ号艦本式缶 2基 |
主機 | 艦本式タービン 2基2軸 |
出力 | 19,000hp |
速力 | 27.8kt |
燃料 | 重油370t |
航続距離 | 18ktで3,500浬 |
乗員 | 211名 / 290名[1] |
兵装 |
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レーダー | |
ソナー |
戦歴
編集就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編入。瀬戸内海に回航され、訓練の後、1945年(昭和20年)1月20日付で第三十一戦隊(鶴岡信道少将・海兵43期)第五十二駆逐隊に編入され[2]、1月22日に門司を出発するモタ33船団を護衛して台湾に向かう[3]。この頃、第五十二駆逐隊の「杉」と「樫」が空襲により損傷して後方に下がるため、その代役として台湾来航が待ち望まれていた[4]。1月27日に基隆に到着後、第四十三駆逐隊の指揮下に入って「梅」「汐風」とともに高雄に向かった[5]。
1月31日朝9時[6]、「梅」「汐風」とともに高雄を出撃してルソン島最北端のアパリへ、フィリピンからの搭乗員救出任務(パトリナオ輸送作戦)とアパリ防衛のための高雄陸戦隊や燃料、車両、弾薬を乗せて向かう[7]。出撃から2時間後、偵察のB-24 に発見され[8]、対空砲火で追い払ったものの更なる空襲は必至となった。15時頃、台湾最南端ガランピ岬南方20海里[6]において第14航空軍所属のP-38 ライトニングに護衛された第38爆撃航空団所属のB-25 ミッチェル12機と第35戦闘航空団所属のP-47 サンダーボルト4機の空襲を受ける。一番砲後部に被弾して一番砲は使用不能となり、艦橋下部構造物は大破する[9]。艦前部が大きく浸水して大火災も発生し、便乗者を含め54名が戦死したが、応急措置により危地を脱出して沈没は免れた[9]。「梅」は3発被弾の上機械室が破壊され航行不能となり、「汐風」の砲撃によって処分された。その「汐風」も至近弾により右舷高低圧タービン損傷により速力が低下する。輸送作戦は中止となり、高雄に帰投した。
高雄と基隆で応急修理が行われた後、2月18日に基隆発のタホ船団を護衛して出港[10]。2月19日未明に爆撃を受けた後、船団と分離して単独で呉に向かい[11]、2月23日に帰投[12]。修理は4月26日まで行われた[13]。復帰後は「柳」「橘」に代わって、「竹」とともに回天目標艦として光、大津島方面で行動した[14]。8月15日の終戦を航行可能状態で迎え、10月5日に除籍された。
12月1日付で特別輸送艦となり復員輸送に従事する。1947年(昭和22年)7月6日、上海で中華民国(台湾)に賠償艦として引き渡され、接二号と仮命名された後、衡陽(ホン・ヤン)と正式に命名された。国共内戦中の1949年5月に淡水に移動し、10月1日に訓練艦隊に編入されて練習艦となった[15]。しかし、機関の状態がよくなく放置され、再武装もされなかった[15]。1960年に除籍後、解体された[15]。
歴代艦長
編集※『艦長たちの軍艦史』368頁による。
艤装員長
編集- 諸石高 少佐:1944年10月10日 -
駆逐艦長
編集- 諸石高 少佐:1944年10月30日 -
脚注
編集- ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, pp.8
- ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127800, pp.44
- ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.46
- ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.49
- ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.54
- ^ a b 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.60
- ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.56
- ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.60 、木俣『日本水雷戦史』614ページ
- ^ a b 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.61
- ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.20
- ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.21
- ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.22
- ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.76,83
- ^ 『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074900, pp.84
- ^ a b c 田村, 138ページ
参考文献
編集- 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年十月一日至昭和十九年十月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127700
- 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年十二月一日至昭和十九年十二月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』『自昭和二十年一月一日至昭和二十年一月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127800
- 第三十一戦隊司令部『自昭和十九年十二月二十二日至昭和二十年一月三十一日 第三十一戦隊戦時日誌』(昭和19年12月22日~昭和20年4月30日 第31戦隊戦時日誌(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030074800
- 第三十一戦隊司令部『自昭和二十年二月一日至昭和二十年三月三十一日 第三十一戦隊戦時日誌』『自昭和二十年四月一日至昭和二十年四月三十日 第三十一戦隊戦時日誌』(昭和19年12月22日~昭和20年4月30日 第31戦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030074900
- 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- 雨倉孝之「松型駆逐艦長の奮戦記」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ43 松型駆逐艦』学習研究社、2003年、ISBN 4-05-603251-3
- 田村俊夫「中国に引き渡された日本の賠償艦艇全34隻の足取り」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ51 帝国海軍 真実の艦艇史2』学習研究社、2005年、ISBN 4-05-604083-4
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9