艦歴
計画 1944年(昭和19年)度計画
建造所 藤永田造船所
起工 1944年5月5日
進水 1944年8月13日
就役 1944年9月30日竣工[1]
除籍 1945年10月5日
その後 1947年8月7日アメリカに引渡し
1948年解体
要目(計画値)
排水量 基準:1,262トン
公試:1,530トン
全長 100.00m
全幅 9.35m
吃水 3.30m
主缶 ロ号艦本式缶2基
主機 艦本式タービン2基2軸 19,000馬力
速力 27.8ノット
航続距離 18ノットで3,500海里
燃料 重油370トン
乗員 211名/247名[2]
兵装
(1944年9月)
40口径12.7cm単装高角砲 1基
40口径12.7cm連装高角砲 1基
25mm連装機銃 4基
25mm単装機銃 不明
(おそらく12基前後)
61cm4連装九二式魚雷発射管 1基4門(予備魚雷なし)
九四式爆雷投射機 2基、爆雷投下軌条×2、(二式爆雷 36発)

(かし)は日本海軍駆逐艦[3]松型駆逐艦の10番艦として藤永田造船所で建造された[4]。 艦名は桃型駆逐艦2番艦「[注 1]に続いて2代目。 1944年(昭和19年)9月30日に竣工。11月15日新編の第52駆逐隊に所属した[6]ヒ81船団を護衛して南西方面に進出後、礼号作戦に参加した[7][8]1945年(昭和20年)1月21日、台湾高雄で空襲を受け損傷した[9]。内地帰投後は瀬戸内海で待機。戦後は復員輸送に従事、のちにアメリカに引き渡されたが解体された[10]

艦歴編集

建造から練習部隊編集

一等駆逐艦(丁型)仮称艦名5490号艦として、藤永田造船所で建造[10]1944年(昭和19年)5月5日、起工[11]6月20日、「」と命名される[3]。同20日付で駆逐艦4隻(樫、榧、檜、楓)は松型駆逐艦に類別された[12]8月10日付で、重巡洋艦「妙高」水雷長の黒木俊思郎少佐は、樫艤装員長に任命される[13]8月13日、進水[11]9月30日、竣工[11]佐世保鎮守府[14]。黒木艤装員長は制式に樫駆逐艦長となった[15]

就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊[注 2]に編入される。瀬戸内海に回航され、訓練に従事した。 10月10日第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)が沖縄[注 3]台湾方面に来襲[18]、日本軍の反撃により台湾沖航空戦が繰り広げられた[19][20]。 連合軍の攻勢に対し捷号作戦警戒態勢がとられ[21]、10月12日から14日にかけて徳島海軍航空隊にいた第四航空戦隊第六三四海軍航空隊の要員を移動させる任務に就く[22]。 また連合艦隊が台湾沖航空戦の「残敵掃討」に第五艦隊を基幹とする第二遊撃部隊を投入した結果[23]、小沢機動部隊の警戒兵力が不足する[24][25]。そこで内地所在の第三十一戦隊十一水戦の一部兵力が機動部隊に編入されたが、「樫」は編入されなかった[注 4]

ヒ81船団編集

11月7日、「樫」は3日後門司を出発して昭南に向かう予定のヒ81船団に加入される[28]。第八護衛船団司令官佐藤勉少将[29]が指揮するヒ81船団部隊は、空母神鷹」、駆逐艦「樫」、海防艦(択捉対馬昭南久米大東、途中合流〈第9号、第61号〉)と、陸軍特殊船4隻(神州丸あきつ丸吉備津丸摩耶山丸)、タンカー5隻、元特設水上機母艦聖川丸」(川崎汽船、6,862トン)で構成され、レイテ島地上戦投入予定の第23師団輸送任務も兼ねていた[30][31]

ヒ81船団部隊の出港は11月14日に延期され、同日朝に伊万里湾を出発する[32]。しかし、スパイに関する噂が船団中に広まるなど前途は多難であった[33]。潜水艦出没情報により宇久島沖で待機の後[34]、翌15日朝に上海沖に向かった。ところが、同日正午に陸軍特殊船「あきつ丸」(日本海運、9,186トン)がアメリカ潜水艦クイーンフィッシュ (USS Queenfish, SS-393) の雷撃により沈没した[35]珍島沖で待機の後再び航行を開始するが[36]11月17日には黄海にてアメリカ潜水艦ピクーダ (USS Picuda, SS-382) の雷撃で陸軍特殊船「摩耶山丸」(三井船舶、9,433トン)が沈没する[35][31]。 同17日夜には、アメリカ潜水艦スペードフィッシュ (USS Spadefish, SS-411) の雷撃で「神鷹」が沈没する[35][37]。神鷹生存者は約60名であった[38]。 摩耶山丸や神鷹沈没時に護衛艦「昭南」や「対馬」が爆雷攻撃をおこなったが[39][40]、沈没したアメリカ潜水艦はいなかった。

以後は被害なくタンカーと同行し、馬公を経由して12月4日にシンガポール昭南)に到着した[36]。陸軍特殊船はマニラにむかった[41]

「樫」がヒ81船団を護衛中の11月15日付で、日本海軍は松型駆逐艦「樫」「」「」「」「」により第52駆逐隊を編成した[6][42]。第52駆逐隊司令には岩上次一大佐(海兵50期、当時第7駆逐隊司令)が任命されている[43]11月25日付で[44]第52駆逐隊第五艦隊隷下の第三十一戦隊[45](司令官江戸兵太郎少将・海兵40期)に編入された[46][注 5]

南西方面作戦編集

1944年(昭和19年)12月5日付で北東方面艦隊が解隊され、第五艦隊南西方面艦隊に編入、第五艦隊隷下の第三十一戦隊も自動的に南西方面艦隊所属となった[48]。軍隊区分においては、南西方面部隊の警戒部隊であった[51]。 昭南到着後の「樫」は、すぐさまマニラへの緊急輸送任務に就く[52]

12月13日、陸軍偵察機がミンドロ島を目指す連合軍大部隊を発見した[53][54]12月14日をもって第十次多号作戦(駆逐艦「清霜[注 6]、松型複数隻参加予定)[56][57]は中止された[58][59]。 同14日、第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦上機はマニラを含めルソン島各地を襲撃した[60]。 「樫」はマニラに到着したばかりで、また同地には第八次多号作戦に参加して損傷した第43駆逐隊がいた[61][62]。 第43駆逐隊司令菅間良吉大佐(海兵50期)は司令駆逐艦を「」から「榧」に変更した[63]。 空襲を受け、松型3隻(、樫)は共にマニラを脱出することとなる[64][注 7]

14日20時[70]、南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将(南西方面部隊指揮官)は、敵がルソン島に来攻した場合に第二遊撃部隊(第五艦隊)と第三十一戦隊の駆逐艦4隻(梅、榧、杉、樫)で突入作戦を実施させるため、両部隊の南沙諸島進出を命じた[71]。第二遊撃部隊は既にカムラン湾に進出していた[72]。 マニラ脱出後の松型3隻(樫、杉、榧)は、ひとまず南沙諸島で様子を伺う事となった[64]

12月15日、アメリカ軍はミンドロ島に上陸を開始してミンドロ島の戦いが始まる[73][74]12月16日午前8時35分[75]大川内長官(中将、海兵37期)は[76]、南沙諸島に待機中の駆逐艦3隻(樫、榧、杉)によるミンドロ島サンホセへの殴り込み作戦を発令、突撃部隊指揮官は第43駆逐隊司令菅間良吉大佐(海兵50期)であった[77]。 計画では「マニラへ向かう航路を取りつつカラミアン諸島を背景にサンホセに突入し、突入後はマニラに帰投する」という作戦だった[78]。この時、松型3隻(榧、杉、樫)はカムラン湾入港直前だったという[79]。「樫」は給水ポンプの復旧の見込みが立たず速力は21ノットを出すのがやっと、「杉」は多号作戦での損傷が癒えておらず、「榧」も不具合を抱えていた[80]。同16日夕刻[81]、43駆司令指揮下の3隻(杉、樫、榧)はカムラン湾に入港し、タンカー「日栄丸」(日東汽船、10,020トン)から燃料を補給した[82]。同16日夜、連合艦隊司令部(参謀長草鹿龍之介中将、先任参謀神重徳大佐)は南西方面部隊に対し、第二遊撃部隊のミンドロ島突入を迫った[83][84]

12月17日、松型3隻はカムランを出撃したが海上は台風で大荒れだった[79]。同17日午後[82]、菅間司令は松型3隻の状態から突入作戦成功の見込みなしと判断し、サンジャックに移動して修理すると報告した[85]18日夜、第二遊撃部隊がサンジャックに到着する[82]。菅間司令は松型3隻の20日夜突入と「但シ 司令ハ肺浸潤俄カニ重リシトシテ「サイゴン」病院ニ入院」を打電した[82]。榧駆逐艦長の指揮下で再出撃したが[79]12月19日午前5時46分になり大川内長官は松型3隻の突入中止と[86]、第二遊撃部隊との合同を命じた[87][82]

12月20日、連合艦隊司令部(草鹿参謀長、神重徳参謀)は南西方面艦隊にミンドロ島逆上陸と水上部隊殴り込みを督促した[83][注 8]。大川内中将は第二水雷戦隊(司令官木村昌福少将・海兵41期)を中心としてサンホセへの突入作戦を行うよう、志摩中将に命令した[90][注 9][注 10]

第二遊撃部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は旗艦を重巡「足柄」から航空戦艦「日向」に変更した[94][注 11]12月21日21時30分[96]、3隻(樫、榧、日栄丸)はサンジャックを出発、22日夕刻にカムラン湾へ進出した[97]。挺身部隊(指揮官木村昌福少将、第二水雷戦隊司令官)の集結を待ち[98]12月24日にカムラン湾を出撃して殴りこみ作戦「礼号作戦」が開始された[99][100]。 空襲を受けつつもサンホセに接近し、マンガリン湾に潜む4隻のリバティ船に対して、「」「榧」とともに魚雷を発射した[101]。いずれの魚雷であるかは判然としないが、魚雷は貨物船ジェームズ・H・ブリーステッド (SS James H. Breasted) に命中して着底させた[102]。作戦を通じ戦死者3名、負傷者6名を出したものの、大きな被害は受けなかった[103]

カムラン湾への帰路[104]についていた12月28日午後、南西方面艦隊は松型3隻(榧、樫、杉)を第二遊撃部隊からとりあげ、南西方面部隊警戒部隊に編入した[105]。松型3隻は二水戦から遅れてカムラン湾へむけ航行中、アメリカ潜水艦デイス (USS Dace, SS-247) の雷撃により沈没した給糧艦「野埼」の乗員を発見、救助を実施した[106][107]12月29日11時35分、カムラン湾に帰投した[108][109]。松型3隻は大型艦(足柄、大淀)から燃料を補給した[110]。同29日1400、「樫」や大淀等はカムラン湾を出発、12月30日13時サンジャックに到着した[110]

同月29日、マニラから来た姉妹艦2隻()がカムラン湾に到着した[111]。「樅」には第三十一戦隊司令部(司令官鶴岡信道少将、海兵43期)[49]が乗艦しており、12月30日午後サンジャックにて鶴岡少将は第三十一戦隊旗艦を「樅」から「樫」に変更した[注 12][注 13]

1945年(昭和20年)1月1日、松型3隻(樫、榧、杉)はサンジャックを出港し、香港経由で1月7日台湾高雄に到着した[114]8日朝、南西方面艦隊は第三十一戦隊に麾下3隻(梅、樫、杉)のルソン島リンガエン湾突入を促した[115]9日朝、南西方面艦隊は水上部隊のリンガエン湾突入をあきらめたので、高雄で修理中の「榧」は舞鶴へ帰投し、香港で修理中の「梅」も高雄へ移動した[115]。1月10日、南西方面部隊指揮官(南西方面艦隊長官)は各部隊の任務を変更した[注 14]。第三十一戦隊に対し「(南西方面部隊)警戒部隊ハ指揮官所定ニ依リ台湾海峡及呂栄海峡方面ニ於ケル敵潜水艦掃討ヲ行フト共ニ 台湾、呂栄間ノ作戦輸送ニ任ズベシ」と命じたのである[117]

1月21日、高雄で第38任務部隊艦上機の空襲を受け、松型3隻(杉、樫、梅)も応戦する[9]。「樫」は3発の直撃弾により缶室、電信室、射撃装置などが損傷して戦死者21名、負傷者20名を出す[118]。第三十一戦隊司令部は陸上の高雄警備府に将旗を掲げた[111]。「樫」はただちに基隆への回航を命じられ、1月24日同地に到着した[119]1月27日には基隆に松型5隻(樫、梅、榧、杉、楓)が揃ったが、「梅」と「楓」は駆逐艦「汐風」と共にルソン島からの航空隊関係者脱出作戦に投入され[120]1月31日バシー海峡で空襲により「梅」が沈没、「楓」も損傷した[121]。 応急修理を続けていた「樫」は、2月1日に「杉」とともに出港し[122]舟山群島南号作戦のヒ88A船団[123][124](「せりあ丸[125]〈三菱汽船、10,238トン〉、第205号海防艦、第41号海防艦)[126]に合流して門司まで護衛を行った[127]。ヒ88A船団部隊は2月7日門司に到着した[128]。護衛終了後の翌8日に佐世保に帰投し、佐世保海軍工廠で修理が行われた[129]

終戦まで編集

「樫」が佐世保に到着する3日前、第五艦隊は解隊されて第十方面艦隊が新編され[130]、五艦隊隷下の第三十一戦隊は連合艦隊付属となった[131][117]。 第三十一戦隊司令部は空路で内地にもどり、駆逐艦「」や秋月型駆逐艦「花月」に将旗を掲げた[132]3月10日、日本海軍は杉谷長秀大佐(当時、駆逐艦涼月艦長)を第52駆逐隊司令に補職した[133]。また3月15日付で第三十一戦隊は第二艦隊に編入され、同月25日付でシンガポールで修理中の軽巡洋艦「五十鈴」は三十一戦隊から除かれた[134]

修理後の「樫」は呉に回航されて戦艦大和」の護衛にあたるが、間もなく呉海軍工廠で再度の修理が行われた[135]。 4月3日、樫駆逐艦長は黒木少佐から萩原学少佐(当時、初桜艤装員長)に交代した[136]。4月20日、第二艦隊や第二水雷戦隊が解隊されると、第三十一戦隊は連合艦隊付属にもどった[137]。 5月20日、軽巡「北上[138](人間魚雷回天母艦)と第三十一戦隊などを基幹として海上挺進部隊が新編され、52駆の「樫」も同部隊所属となる[139]。出撃の機会はなく、瀬戸内海で訓練と待機の日々を過ごした。7月28日の呉軍港空襲では至近弾により小破、そのまま呉で終戦を迎えた。10月5日除籍。

12月1日に特別輸送艦に指定され、復員輸送に従事した。終了後は賠償艦として1947年(昭和22年)8月7日に佐世保でアメリカに引渡されるが、そのまま売却。10月27日から1948年(昭和23年)3月20日にかけて笠戸ドックで解体された[140]

歴代艦長編集

※『艦長たちの軍艦史』366頁による。

艤装員長編集

  1. 黒木俊思郎 少佐 1944年8月10日[13] - 1944年9月30日[15]

駆逐艦長編集

  1. 黒木俊思郎 少佐 1944年9月30日[15] - 1945年4月3日[136]
  2. 萩原学 少佐 1945年4月3日[136] - 不明

出典編集

編集

  1. ^ のちに満州国に譲渡され「海威」となった[5]
  2. ^ 第十一水雷戦隊司令官は高間完少将海軍兵学校41期)、当時の旗艦は球磨型軽巡洋艦「多摩」。
  3. ^ 沖縄への十・十空襲では[16]、潜水母艦「迅鯨」と共に行動していた満州国警備艦「海威」(初代の樫)が沈没した[17]
  4. ^ 十一水戦から機動部隊本隊に編入されたのは軽巡「多摩」と駆逐艦「」であり、高間司令官は旗艦を「」に変更して内地に残った[26]。レイテ沖海戦で「多摩」は撃沈され[27]、「杉」は生還した。
  5. ^ この日、第三十一戦隊旗艦「霜月」が潜水艦カヴァラに撃沈され[47]、江戸少将と司令部は全滅した[48]。後任司令官は鶴岡信道少将で[49]、新司令部は12月上旬に内地で発足、空路でマニラへ進出した[50]
  6. ^ (昭和19年12月12日)[55]〔 十二日一六四六(指揮官)NSB|十三日〇二〇〇(指揮官)2YB (司令官)2Sd(GF長官-)|南西方面部隊電令作第八一八號 第十次多號輸送作戰期間中第二水雷戰隊ノ駆逐艦一隻ヲ護送部隊ニ一時編入ス 右駆逐艦ハ十二月十四日一二〇〇迄ニ「マニラ」ニ回航セシムベシ|無電 〕/〔 十三日〇六四五(司令官)2Sd(宛略)二水戰電令第八號 南西方面部隊電令作第八一八號ニ依ル駆逐艦ヲ二駆(清霜)ニ指定ス|信號 〕/〔 十三日(指揮官)2YB|十三日〇八四〇 2YB|着信者 二水戰司令官 清霜 通報 GF長官 GKF長官 第一輸送戰隊司令官 南西方面部隊電令作第八一八號ニ依ル駆逐艦一隻ヲ第二駆逐隊(清霜)ニ指定ス|信號(無電) 〕
  7. ^ 空襲を逃れてマニラを脱出した姉妹艦(梅、)のうち、「梅」は空襲により艦首に被弾して小破[65]海南島経由で香港に脱出できた[66]。「桃」は空襲で損傷したあと[67]高雄へ避退中の12月15日20時30分[68]、潜水艦ホークビルによって撃沈された[47]。第九次多号作戦で損傷した「桐」は15日にマニラを脱出[69]、内地に帰投できた。
  8. ^ 12月23日には草鹿参謀長、神重徳参謀、淵田美津雄航空参謀が空路でマニラに乗り込み、現地陸海軍との調整をおこなった[88][89]
  9. ^ NSB電令作第838号[91](20日0819番電)一 第二遊撃部隊指揮官ハ左ニヨリ「サンホセ」突入作戦ヲ実施スベシ 編制及行動予定ヲ予メ報告スルト共ニ関係各部ニ通報スベシ/指揮官 二水戦司令官/兵力 巡洋艦一隻乃至二隻 駆逐艦四乃至六隻/突入期日 十二月二十二日以降ナルベク速ニ夜半突入 本作戦中 杉、樫、榧ヲ一時第二遊撃部隊ニ編入ス 〕
  10. ^ 12月20日時点でサンジャック所在艦艇(足柄、日向、伊勢、大淀、朝霜、清霜、杉、樫、榧、日栄丸など)、サンジャック南南西約330浬に妙高救援部隊[92](羽黒、妙高、霞、初霜、海防艦千振など)[93]
  11. ^ 礼号作戦終了後の1945年(昭和20年)1月1日、シンガポールで第二遊撃部隊旗艦は「日向」から「足柄」に復帰した[95]
  12. ^ (旗艦、司令部所在地変遷)[111](将旗)ノ掲揚 一二.二二「マニラ」海軍本部/二四 二九)樅/一二.三〇 一.二二)樫/一.二三 二.二四)高雄警備府/二.二八 三.一七)(呉)/三.一八花月三.一五 2Fニ編入(以下略)。
  13. ^ マニラに戻った第2駆逐隊(檜、樫)は1945年(昭和20年)1月5日に「樅」が、1月7日に「檜」が撃沈され、岩上大佐(第52駆逐隊司令)も戦死した[112][113]
  14. ^ 第一遊撃部隊=南方輸送路の支援及び好機比島方面敵進攻部隊の撃滅、警戒部隊=台湾海峡及びルソン海峡方面敵潜掃蕩及び台湾ルソン間作戦輸送、第一輸送戦隊=台湾ルソン間作戦輸送、潜水部隊=比島方面作戦[116]

脚注編集

  1. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, pp.53
  2. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.8
  3. ^ a b #S19.6-7海軍公報(部内限)/6月(12) p.17〔 達第二〇二號 昭和十八年度及昭和十九年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦四隻、潜水艦三隻、海防艦六隻及輸送艦一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十九年六月二十日 海軍大臣  株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 樫(カシ)/舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 榧(カヤ)/横須賀海軍工廠 驅逐艦 檜(ヒノキ) 驅逐艦 楓(カヘデ)(以下略) 〕
  4. ^ 戦史叢書88 1975, pp. 52-56駆逐艦(丁)
  5. ^ 福井、日本駆逐艦物語 1993, p. 294日本海軍駆逐艦艦名一覧/二等駆逐艦/樫(I)Kashi
  6. ^ a b #S19.9-12秘海軍公報号外/11月(3) pp.4-5〔 内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日 海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ| |第五十二驅逐隊|桑、檜、樅、杉、樫| |第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル 〕
  7. ^ 秋月型(光人社) 2015, p. 335.
  8. ^ 昭和19.1~昭和20.2大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年12月 」 アジア歴史資料センター Ref.C16120660300  p.11(昭和19年12月26日、礼号作戦概要)
  9. ^ a b 昭和19.1~昭和20.2大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和20年1月 」 アジア歴史資料センター Ref.C16120660400  p.10(昭和20年1月)〔 21|1100|杉、樫、梅ハ高雄ニ於テ敵艦上機約50ト交戰其ノ6(飛行機)ヲ撃墜 春風ハ馬公ニ於テ4(飛行機)ト交戰 杉、樫、春風ハ若干ノ被害ヲ受ク 〕
  10. ^ a b 福井静夫、日本駆逐艦物語 1993, p. 291日本海軍駆逐艦艦名一覧/一等駆逐艦/樫(II)Kashi
  11. ^ a b c 戦史叢書88 1975, p. 55第5490号艦 樫
  12. ^ #内令昭和19年6月 p.37〔 内令第七九九號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年六月二十日 驅逐艦、一等松型ノ項中「樅」ノ下ニ「樫、榧、檜、楓」ヲ加フ(以下略) 〕
  13. ^ a b 昭和19年8月14日(発令8月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1563号 p.39」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100500 
  14. ^ 昭和19年9月~12月 秘海軍公報 号外/10月(1)/秘海軍公報 第4816号 昭和19年10月3日 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070497300  p.7〔 内令第一一二三號(中略)駆逐艦 樫 右本籍ヲ佐世保鎭守府ト定メラル(中略)昭和十九年九月三十日 海軍大臣 〕
  15. ^ a b c 昭和19年10月7日(発令9月30日付)海軍辞令公報(甲)第1603号 p.43」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101400 
  16. ^ 戦史叢書56 1972, pp. 14-15米機動部隊の沖繩来襲(十月十日)
  17. ^ 福井静夫、日本駆逐艦物語 1993, pp. 77-78〈桃型〉
  18. ^ 戦史叢書56 1972, pp. 15-16米機動部隊の臺灣強襲(十月十二、十三日)
  19. ^ 戦史叢書54 1972, p. 377連合軍レイテに上陸
  20. ^ 戦史叢書56 1972, pp. 16-18米機動部隊避退を始む(十月十四日)
  21. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.14,17,20
  22. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.18,20,21,38,39
  23. ^ 戦史叢書56 1972, pp. 18-19聯合艦隊司令部、敵猛追を下令
  24. ^ 戦史叢書56 1972, pp. 27-29機動部隊本隊に対する指導
  25. ^ 戦史叢書56 1972, pp. 75-77二 機動部隊本隊/出撃準備の下令
  26. ^ 戦史叢書56 1972, p. 78十一水戦
  27. ^ 戦史叢書56 1972, pp. 443-444米側資料による「多摩」の最期
  28. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.55
  29. ^ 戦史叢書46 1971, pp. 321-322特設船団司令部の設置
  30. ^ 戦史叢書46 1971, pp. 381-382神鷹(旧獨商船シャルンホルスト号)(五)ヒ八一船団
  31. ^ a b 戦史叢書93 1976, pp. 72-73第二十三師団の海没
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  95. ^ 『第五艦隊戦時日誌』C08030019900,pp.58〔 一月一日一二〇一 二遊撃部隊指揮官|南西方面艦隊長官(東通 十通 二艦隊長官)|通報(宛略)2YB〔(足柄、大淀) 2Sd(霞、朝霜)〕一二〇〇昭南水道着 旗艦ヲ足柄ニ復皈|無電 〕
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  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社、1984年4月。ISBN 4-7698-0231-5
  • 「縁の下の役割」<駆逐艦「」艦長・大西快治少佐の証言>
  • 「幸運と不運」<駆逐艦「」艦長・宇那木勁少佐の証言>
  • 「貴重な勝利」<駆逐艦「清霜」艦長・梶本顗少佐の証言>
  • 「戦術の極意」<駆逐艦「」艦長・石塚栄少佐の証言>
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  • 外山操『艦長たちの軍艦史』(光人社、2005年) ISBN 4-7698-1246-9
  • 福井静夫福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 日本駆逐艦物語』第5巻、阿部安雄・戸高一成/編集委員、光人社、1993年1月。ISBN 4-7698-0611-6
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関連項目編集