谷桃子 (バレエダンサー)
谷 桃子(たに ももこ、1921年1月11日 - 2015年4月26日)は、日本のバレリーナ、振付家である[3][4][5][6][7]。一般財団法人谷桃子バレエ団総監督[4]。本名は上田 桃子(うえだ ももこ)[3][4][8]。日本バレエ協会第3代会長[3][9]、全日本舞踊連合理事等を歴任した。
たに ももこ 谷 桃子 | |||||
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![]() 満27歳(1948年)。 | |||||
本名 | 上田 桃子 (うえだ ももこ) | ||||
生年月日 | 1921年1月11日 | ||||
没年月日 | 2015年4月26日(94歳没) | ||||
出生地 |
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死没地 |
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身長 | 155センチメートル[1] | ||||
職業 | バレリーナ、振付家、芸術監督 | ||||
ジャンル | 現代舞踊、バレエ | ||||
活動期間 | 1929年 - 2015年 | ||||
活動内容 | バレエダンサー、バレエ団結成・主宰、バレエ振り付け・創作 | ||||
配偶者 | 小牧正英(1946年→1947年)[1][2] | ||||
著名な家族 | 伊達純 (義弟) | ||||
所属劇団 |
石井漠舞踊団 日劇ダンシングチーム 東京バレエ団 小牧正英バレエ団 一般財団法人谷桃子バレエ団 (1949年 - 2015年) | ||||
公式サイト | tanimomoko-ballet.com | ||||
主な作品 | |||||
『コッペリア』 『白鳥の湖』 『ジゼル』 『リゼット』 | |||||
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経歴
1921年(大正10年)1月11日、兵庫県姫路市に生まれる[3][4][6][7]。7歳まで同県西宮市で育つ[6]。父は外国の商社勤務で、母は父以上にモダンな感覚の女性[10]。まだ3歳だった1924年(大正13年)、来日して神戸市の聚楽館で公演が行われた『瀕死の白鳥』でのアンナ・パブロワを観劇している[6][注釈 1]。白鳥の死を心配して「あー」と指さし、母は幼いのに理解できていると思った。これがきっかけで小学生で上京している時、引っ込み思案になっていたので、当時周囲には同様の子はいないがバレエを習わせた[11]。
旧制小学校生の1929年(昭和4年)、満8歳のときに石井漠舞踊団に入団、石井漠、その義妹の石井小浪(1905年 - 1978年[12])にモダンダンスで師事する[3]。文化学院を卒業後、第二次世界大戦初期、満22歳になった1943年(昭和18年)に日劇ダンシングチームに入団、益田隆(1910年 - 1996年)、伊藤道郎に師事し、現代舞踊のダンサーとして活動する[3][8]。
1946年(昭和21年)谷の相談役相手の評論家・中根宏の紹介で小牧正英に師事してクラシックバレエに転向[13]。小牧も参加した第1期東京バレエ団に参加、同年10月14日 - 同29日、同団第2回公演として帝国劇場で行われた「藝術祭バレエ公演」のうち、草刈義人(1909年 - 2004年)原案・台本による『パガニーニの幻想』(振付小牧正英)に「少女」役で出演、これがバレエデビュー第1作に当たる[3][5]。日劇を辞めて1947年2月10日から23日同団帝国劇場で『バラの精』(振付補正、小牧正英)「少女」出演(東宝公演)[14]。1947年(昭和22年)10月4日 - 25日東京バレエ団第3回公演(帝国劇場)「コッペリア」(全幕日本初演)で主演、プリンシパルとして「スワルニダ」役を演じて「フランツ」役の小牧を相手役とした[15]。1948年(昭和23年)1月9日 - 同13日、東京バレエ団関西公演で大阪朝日会館で行った「グランドバレエ コッペリア 靑い眼の少女」の公演で、同配役で「スワルニダ」。[5]。同団は現在の東京バレエ団とは直接の関係はなく、5年の活動で1950年2月終幕で解散した。『白鳥の湖』オデット役をダイジェスト版で初演。
谷桃子バレエ団、結成
1948年バレエ団結成準備団体として前身「東京バレエ研究会」を大滝愛子、長谷川訓子、内田道生、有馬五郎、田中好道らと発会する[16]。1949年(昭和24年)に谷桃子バレエ団を組織する。翌1950年(昭和25年)2月1日 - 同14日、小牧正英バレエ団・服部島田バレエ団との合同公演を有楽座で開き、『白鳥の湖』、『コッペリア』を、小牧正英バレエ団のプリマ・広瀬佐紀子(1927年 - )や大滝愛子とともに交代で主演する[5]。同年映画『赤い靴』がヒットし全国的なバレエ・ブームで教室も多く開かれる中、主演の英国バレリーナモイラ・シアラーから、谷が日本を代表するバレリーナだとして、映画と同色の赤いトウシューズを贈られて話題に。谷のブロマイドが売れ、地方公演が相次いだ[8]。1951年(昭和26年)11月、瀧口修造らの実験工房の第1回発表会において、『生きる悦び』を益田隆とともに上演した[17]。1954年(昭和29年)4月7日から1955年2月22日までパリに留学[15]。『白鳥の湖』オデット役を留学帰国記念として1955年谷桃子バレエ団として古典バレエの全幕の初演で、深みを増した演技と舞台で、翌年・全国巡演[18]。生涯ほぼ1000回演じて、日本のバレエ界に一時代を画した[8]。その後、1956年(昭和31年)『ジゼル』で舞踊ペンクラブ賞、1962年(昭和37年)『リゼット』で芸術祭奨励賞を受賞した[3]。
1974年(昭和49年)、満53歳のときに、腰の軟骨が消耗し、バレエの全幕は無理だと、ドクターストップ[1]。『ジゼル』を最後に現役ダンサーを引退する。後には同バレエ団で芸術監督、振付家として、古典のみならず創作バレエも作り、後身を指導する[3]。2003年(平成15年)、日本バレエ協会第3代会長に就任、2006年(平成18年)に退任した[3]。子弟には、有馬五郎(1922年 - 1993年)[19][注釈 2]。門下には、松岡伶子[6]、石井清子、高部尚子、黒田育世、尾本安代、伊藤範子らがいる[7]。
2015年(平成27年)4月26日、敗血症のため神奈川県川崎市の病院で死去した[3][4][7]。満94歳没。同年5月3日に青山葬儀所で行われた葬儀の喪主は、妹の伊達ナナが務めた[4][7]。ピアニスト・東京芸術大学教授の伊達純(1920年 - 2000年)は義弟に当たる[20]。同バレエ団は、赤城圭が継承し団長、芸術監督は齊藤拓が務める[4]。
年譜
- 1929年 - 石井漠舞踊団で石井漠と石井小浪にモダンダンスで師事する[3]。
- 1943年 - 日劇ダンシングチームに入団[8]。
- 1946年 - 小牧正英に師事しクラシックバレエに転向する[13]。
- 1947年 - 東京バレエ団『コッペリア』の日本初演で主役を踊る[5]。
- 1948年 - 『白鳥の湖』オデット役をダイジェスト版で初演。
- 1949年 - 谷桃子バレエ団を組織[16]。
- 1955年 - フランス留学帰国記念で谷桃子バレエ団として古典バレエの全幕初演で『白鳥の湖』オデット役[18]。
- 1958年 - この年に設立された日本バレエ協会に前年から発起人としてかかわる[21]。
- 1974年 - 舞台を引退し、振り付け、ダンス創作、指導に専念[3]。
受賞
映画
- 『舞姫』 : 製作児井英男、監督成瀬巳喜男、原作川端康成、脚本新藤兼人、主演山村聡・高峰三枝子、製作・配給東宝、1951年8月17日公開 - 「振付」役で谷桃子バレエ団とともに出演(特別出演)、85分の上映用プリントをNFCが所蔵[24]
- スタッフ
テレビ
モデルとなった絵画
脚注
注釈
出典
- ^ a b c 谷桃子さん、日本バレエ界の草分け『白鳥の湖』『ジゼル』に人生を託し「もう一生ほしいな」-2…2015年5月23日産経新聞
- ^ 小牧正英 1977, p. 78.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 谷桃子、コトバンク、2015年8月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g 訃報・新芸術監督就任について、谷桃子バレエ団、2015年8月20日閲覧、2025年3月10日archive差替え
- ^ a b c d e 谷桃子、昭和音楽大学、2015年8月20日閲覧。
- ^ a b c d e バレリーナ谷桃子さんが日本のバレエに残したもの、菘あつこ、WEBRONZA、2015年5月26日付、2015年8月20日閲覧。
- ^ a b c d e f g “元日本バレエ協会会長の谷桃子さん死去”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2015年4月27日). オリジナルの2015年4月30日時点におけるアーカイブ。 2015年5月14日閲覧。2025年3月10日archive差替え
- ^ a b c d e “全国的バレエ・ブーム起こす…谷桃子さんが死去”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2015年4月27日). オリジナルの2015年4月29日時点におけるアーカイブ。 2015年5月14日閲覧。
- ^ “日本バレエ協会とは”. 日本バレエ協会. 2015年5月14日閲覧。
- ^ a b 谷桃子さん、日本バレエ界の草分け『白鳥の湖』『ジゼル』に人生を託し「もう一生ほしいな」…2015年5月23日産経新聞2025年3月31日閲覧
- ^ 映画配給社デイライト2011年6月10日「谷桃子インタビュー」BalletNaviバレエ情報ポータルサイト・バレエナビブログ2011年6月29日
- ^ 石井小浪、コトバンク、2015年8月20日閲覧。
- ^ a b 小牧正英 1977, pp. 76–77.
- ^ 小牧正英 1977, pp. 81–83.
- ^ a b 『日本洋舞史年表1:1900-1959』、新国立劇場情報センター
- ^ a b c 谷桃子バレエ団ヒストリー 2013.
- ^ 実験工房、コトバンク、2015年8月20日閲覧。
- ^ a b 2024年1月谷桃子バレエ団新春公演75th・Anniversary「SWANLAKE」全幕2025年3月31日閲覧
- ^ 有馬五郎、コトバンク、2015年8月20日閲覧
- ^ 伊達純、コトバンク、2015年8月20日閲覧。
- ^ “設立から1969年まで”. 日本バレエ協会の歩み. 日本バレエ協会. 2015年5月14日閲覧。
- ^ バレリーナの谷桃子さん死去
- ^ a b 谷桃子さん死去 94歳 戦後の日本バレエ界をけん引 スポニチアネックス 2015年4月27日
- ^ a b c 谷桃子、東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年8月20日閲覧。
- ^ 谷桃子、文化庁、2015年8月20日閲覧。
- ^ 谷桃子、KINENOTE, 2015年8月20日閲覧。
- ^ 谷桃子、日本映画データベース、2015年8月20日閲覧。
- ^ 谷桃子、『バレエ 女の愛と生涯』『テレビドラマデータベース』、2025年3月10日閲覧。
- ^ “奥村土牛”. 東文研アーカイブデータベース. 東京文化財研究所. 2015年5月14日閲覧。
参考文献
- 小牧正英『バレエと私の戦後史』毎日新聞社、1977年。doi:10.11501/12434927。
- 『谷桃子バレエ団の40年』、谷桃子バレエ団40年史編集委員会・谷桃子バレエ団、レオ企画、1995年5月発行 ISBN 4897560551
- “ヒストリー”. 谷桃子バレエ団. 2013年5月1日閲覧。
関連項目
外部リンク
画像外部リンク | |
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谷桃子 白鳥 (谷桃子バレエ団) |
- 谷桃子バレエ団 - 公式ウェブサイト
- 谷桃子 - コトバンク
- 谷桃子 - 昭和音楽大学バレエ総合データベース
- 谷桃子 - KINENOTE (同上)
- 谷桃子 - 東京国立近代美術館フィルムセンター
- 谷桃子 - 日本映画データベース
- 谷桃子 - テレビドラマデータベース (渋谷桃子・谷桃子との混同あり)