郭 興(かく こう、1330年 - 1383年)は、末から初の軍人。濠州の人。朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。弟の郭英も朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。妹は郭寧妃

生涯編集

姓名 郭興
時代 時代 - 時代
生没年 1330年至順元年) - 1383年洪武16年)
字・別名 子興(別名)
本貫・出身地 濠州
職官 管軍総管→統軍元帥→鷹揚衛指揮使

→鎮国将軍、大都督府僉事→陝西行都督府僉事

爵位 鞏昌侯(明)→陝国公(明)
諡号 宣武(明)
陣営・所属 郭子興朱元璋
家族・一族 父:郭山甫、弟:郭英郭徳成、妹:郭寧妃

1352年郭子興が挙兵すると、これに参加した。朱元璋に出会い、彼に心服するようになる。軍中では朱元璋の宿衛を守った。

1353年定遠攻略に参加した24将の1人。功績を上げて管軍総管となり、さらに統軍元帥に進んだ。常州攻略に参加した。寧国江陰宜興婺州安慶衢州を攻略した。

1363年鄱陽湖の戦いに参加した。陳友諒軍は巨艦を連ねて、朱元璋軍との戦いを有利に進めていた。これを打開するために、郭興は火攻めを提案する。火攻めにより形勢は逆転し、陳友諒は戦死して、朱元璋軍の勝利に終わった。武昌攻略に参加し、敵兵を多く斬り、鷹揚衛指揮使となった。徐達に従って廬州を攻略し、安豊を救援して張士誠軍を破った。襄陽衡州澧州を攻略した。高郵淮安を攻略した。湖州平江を攻略した。張士誠を滅ぼした後、鎮国将軍・大都督府僉事となった。

1368年洪武元年)、徐達に従い、汴梁を攻略し、河南を守った。馮勝陝州を攻略した後、潼関を守備する軍を出してほしいと頼んだ。徐達は「郭興にしか務まらぬ」と言って、郭興に潼関を守らせた。潼関周辺には哈麻図李思斉張思道らが東方進出を狙って、奉元にて奪取の機会を窺っていた。王左丞が攻めてきたが、これを撃退する。徐達に従い、奉元を攻めて、これを攻略する。鞏昌の守備に移り、辺境地域を安定させた。

1370年(洪武3年)、陝西行都督府僉事となる。冬、功臣の叙勲が行われた。郭興は規律を守らなかったため、鞏昌侯に止められ、食禄1千5百石を賜った。

1371年(洪武4年)、夏国討伐に向かい、漢州成都を攻略する。

1373年(洪武6年)、徐達に従い、北平を守備する。陳徳とともに元軍を答剌海口にて破る。

1378年(洪武11年)、臨清で練兵を行った。

1383年(洪武16年)、北方の辺境を巡った。召還された後、53歳で亡くなった。陝国公を贈られ、宣武とされた。

1390年(洪武23年)、李善長の獄に追座して除爵された。

参考文献編集

  • 明史』 巻131 列伝第19