酒井忠顕
酒井 忠顕(さかい ただてる)は、江戸時代末期の大名。播磨姫路藩の第7代藩主。雅楽頭系酒井家20代。
時代 | 江戸時代後期 - 末期(幕末) |
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生誕 | 天保7年(1836年) |
死没 | 万延元年10月14日(1860年11月26日) |
改名 | 稲若(幼名)→忠顕 |
別名 | 勘解由(通称)、霽山(号) |
戒名 | 顕徳院殿霽山源魏大居士 |
墓所 | 群馬県前橋市紅雲町の龍海院 |
官位 | 従四位下、侍従、雅楽頭、左近衛少将 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家定→家茂 |
藩 | 播磨姫路藩主 |
氏族 | 三宅氏→雅楽頭酒井家 |
父母 |
父:三宅康直、母:西尾忠善の娘 養父:酒井忠宝 |
兄弟 | 忠顕、忠敬、竹腰正旧 |
妻 | 文子(酒井忠学の娘) |
子 |
鏐子(酒井忠邦正室) 養子:忠績 |
生涯
編集三河田原藩主・三宅康直の長男。康直は第4代姫路藩主・酒井忠実の六男で、忠顕は同じく忠実の孫である第6代藩主・忠宝の従弟にあたる。忠宝の養女・文子(第5代藩主・忠学の六女で、忠宝の正室・喜曽姫の妹)と結婚して養嗣子となり、嘉永6年(1853年)に18歳で家督を相続した。万延元年(1860年)、25歳で死去し、養子の忠績が跡を継いだ。なお、明治維新後に忠顕未亡人の文子は一時、酒井家宗家の当主となった。