酒井文子
酒井 文子(さかい あやこ、 天保15年6月24日(1844年8月7日) - 明治41年(1908年)3月16日[1])は、幕末から明治時代後期にかけての大名家・大名華族の女性で、雅楽頭系酒井家宗家の人物。播磨姫路藩5代藩主・酒井家18代当主酒井忠学の六女で、7代藩主・20代当主酒井忠顕の正室となった。最後の藩主で忠顕の娘婿であった23代当主酒井忠邦の早世後、忠邦の遺児忠興が満8歳となるまで24代当主を務めた。
生涯
編集1844年(天保15年)8月7日、姫路藩5代藩主酒井忠学の六女[2]として生まれる。忠学は同年10月10日に死去した[2]。忠学に男子はなく、婿養子(文子の長姉・喜曾の夫)に迎えた一族の忠宝が第6代藩主となった。文子は忠宝の養女となり、田原藩主三宅康直(酒井家出身)の子の稲若を婿養子に迎える[2]。稲若改め酒井忠顕は1853年(嘉永6年)に家督を相続して第7代藩主となるが、1860年(万延元年)10月14日に死去した[2]。
酒井家は以後も同族からの養子による跡目相続が3代続いたが、廃藩後の1879年(明治12年)4月17日に当主忠邦がまだ出生していない遺腹の子(忠興)を遺して死去した際、文子が家督を相続して当主となった[1]。1884年(明治17年)に華族令が施行され、華族家の当主には5階の爵位が授けられたが、文子は女戸主のため爵位は授けられていない[3]。1887年(明治20年)6月6日、満8歳となった忠興に家督を譲る[1]。同年同月、忠興に伯爵が授けられた[3]。
親族
編集『平成新修旧華族家系大成』によれば以下の通り。
系図
編集忠恭9 姫路藩主1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠仰 | 忠温 伊勢崎藩主3 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠以10 姫路藩主2 | 忠哲 伊勢崎藩主4 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠道11 姫路藩主3 | 忠実12 姫路藩主4 | 忠寧 伊勢崎藩主5 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠学13 姫路藩主5 | 忠讜 | 三宅康直 田原藩主 | 忠良 伊勢崎藩主6 | 忠恒 伊勢崎藩主7 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
喜曾 忠学長女 | 忠宝14 姫路藩主6 | 文子19 | 忠顕15 姫路藩主7 | 忠敬 忠績の養子 | 玲 忠学三女 | 忠強 伊勢崎藩主8 | 歌 康直八女 | 忠彰 伊勢崎藩主9 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠績16 姫路藩主8 | 忠惇17 姫路藩主9 | 鏐子 忠顕女 | 忠邦18 姫路藩主10 | 春子 | 前田利昭 七日市藩知事/子爵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
阿部正桓 福山藩主/伯爵 | 忠興20 伯爵 | 清子 | 前田利定 子爵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
阿部正直 伯爵 | 忠正21 伯爵 | 秋子 忠興長女 | 菊子 忠興次女 | 前田利為 侯爵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠元22 | 美意子 | 前田利建 侯爵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
太字は当主、数字は代数。
脚注
編集参考文献
編集- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)