野村靖

日本の武士、政治家、子爵

野村 靖(のむら やすし、天保13年8月6日1842年9月10日) - 明治42年(1909年1月24日)は、明治時代日本政治家[1]子爵。名は和作、靖之助とも。号を欲庵、香夢庵主。官位は正二位。山口県萩市萩往還公園に天野清三郎と並んだ銅像が立っている。

野村 靖
のむら やすし
生年月日 1842年9月10日
(旧暦天保13年8月6日
出生地 日本の旗 長州藩
没年月日 (1909-01-24) 1909年1月24日(66歳没)
死没地 日本の旗 日本 神奈川県鎌倉郡鎌倉町
称号 正二位
勲一等旭日桐花大綬章
子爵

日本の旗 第6代 逓信大臣
内閣 第2次松方内閣
在任期間 1896年9月26日 - 1898年1月12日

日本の旗 第8代 内務大臣
内閣 第2次伊藤内閣
在任期間 1894年10月15日 - 1896年2月3日

在任期間 1878年7月25日 - 1881年11月8日

在任期間 1876年3月28日 - 1878年7月25日
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生涯 編集

 
藩士時代

天保13年(1842年)、長州藩の下級武士(足軽入江嘉伝次の次男として生まれる。兄に入江九一、妹にすみ子伊藤博文の最初の妻)がいる。

兄・九一が入江氏を継承したため、親戚の野村氏を継承した。吉田松陰松下村塾に入門して尊王攘夷に傾倒、老中間部詮勝の暗殺計画が露見して兄と共に投獄されるが、文久2年(1862年)にはイギリス公使館の焼き討ちに参加。第二次長州征討でも活躍している。

明治維新後、廃藩置県にあたって、鳥尾小弥太とともに、西郷隆盛木戸孝允等政府有力者を周旋しとりまとめるなど活躍を見せ、その後、宮内大丞、外務大書記となり、岩倉使節団の一員として渡欧。神奈川県権令及び県令・駅逓総監・逓信次官を歴任し、明治20年(1887年)に子爵に叙せられる。明治21年(1888年)に枢密顧問官、明治24年(1891年)に駐仏公使を歴任した。

明治27年(1894年)には第2次伊藤内閣内務大臣に就任し、翌28年(1895年)に東京府を廃止して東京15区を「東京都」として独立させて政府の支配を強化し、他の地域を多摩県として再編成させる「東京都制および多摩県設置法案」を提出したが、帝国議会(第9議会)や東京市民の反感を買って廃案となり、責任を取って辞任した(1896年2月3日)。しかし29年(1896年)には第2次松方内閣逓信大臣に就任している。

晩年は皇室の養育掛長をつとめた。明治42年(1909年)、富美宮允子内親王泰宮聡子内親王に供奉して鎌倉に出張中、脳溢血のため68歳で死去した[2]。遺言により世田谷、松蔭神社の墓域内に埋葬された。

明治9年(1876年)、神奈川県権令時に、三宅島流刑を赦免されて東京に戻っていた沼崎吉五郎の突然の訪問を受け、同囚であった吉田松陰から託された留魂録の正本を受け取っている。

栄典 編集

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

親族 編集

11人の子を生した。

登場作品 編集

脚注 編集

  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus「野村靖」
  2. ^ 新聞集成明治編年史. 第十四卷 p.20
  3. ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
  4. ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
  5. ^ 『官報』第3695号「叙任及辞令」1895年10月22日。
  6. ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
  7. ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
  8. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  9. ^ 『官報』第5393号「叙任及辞令」1895年6月22日。
  10. ^ 『官報』第7194号「叙任及辞令」1907年6月24日。
  11. ^ 『官報』第1005号「官庁事項・辞令」1886年11月4日。
  12. ^ a b 『中勘助の恋』富岡多恵子、 創元社 (1993/11)、p262

外部リンク 編集

公職
先代
(新設)
  逓信次官
1886年 - 1888年
次代
前島密
先代
前島密
  駅逓総官
1881年 - 1886年
(1884年中品川弥二郎と共同)
次代
(廃止)
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
野村(靖)家初代
1887年 - 1909年
次代
野村益三