金沢町 (秋田県)

日本の秋田県仙北郡にあった村

金沢町(かねざわまち)は、秋田県の東南部に位置した後三年の役古戦場として知られ、金沢柵などの史跡がある[1]。昭和の大合併で横手市に編入され消滅。その後、北部が仙北郡仙南村に分市した[1]

かねざわまち
金沢町
廃止日 1956年9月30日
廃止理由 編入合併
金沢町横手市
現在の自治体 横手市美郷町
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 東北地方
都道府県 秋田県
仙北郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 28.93 km2.
総人口 7,478
(1956年9月30日)
隣接自治体 横手市(旧横手町、旧境町村、旧山内村
仙北郡:仙南村(旧飯詰村、旧金沢西根村
仙北郡:六郷町
金沢町役場
所在地 秋田県仙北郡金沢町金沢本町字本町27
座標 北緯39度22分40秒 東経140度34分27秒 / 北緯39.37769度 東経140.57414度 / 39.37769; 140.57414 (金沢町)座標: 北緯39度22分40秒 東経140度34分27秒 / 北緯39.37769度 東経140.57414度 / 39.37769; 140.57414 (金沢町)

町村制施行当時の仙北郡
6.金沢村
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概要 編集

平安時代に起こった後三年合戦の古戦場として知られる[2]。『奥州後三年記』などによれば、ここでは出羽清原氏一族の清原武衡清原家衡のこもる金沢柵源義家藤原清衡連合軍が兵糧攻めの末に落城させたとされ、これが奥州藤原氏による平泉政権につながったものである[注釈 1]。古戦場には金澤八幡宮があり、従来はこれが金沢柵のあった場所と考えられてきた[3]。しかし、こんにちでは横手市金沢中野の陣館遺跡で庇付建物が見つかったり、美郷町側の長岡森周辺の地形・構造が横手市の平安時代の同時期の防禦性集落大鳥井山遺跡(国の史跡)に似ていることなどが指摘されており、八幡宮一帯が金沢柵の故地であるとは断定できなくなってきた[4]

一方、八幡宮一帯が中世において城館「金沢城」として用いられてきたこともまた事実であり、曲輪(郭)や空堀、一部石垣を備えた本格的な防禦施設であることは明らかである[3]昭和40年代には秋田県教育委員会によって発掘調査がおこなわれ、本丸跡、西の丸、北の丸からは掘立柱建物跡を検出している[3][5]。建物の時期を特定できる遺物は出土していないが、北の丸建物遺構の検出された平坦地北側からは木炭くず、炭化米が出土している[3]遺跡全体からは、須恵器古瀬戸黄瀬戸、中国産青磁製片口、赤漆塗の常滑産の三筋文壺などが出土している[3][5]文献資料からは、1458年長禄2年)に南部氏の家臣金沢右京亮が入り、1470年文明2年)まで居館としていた[6]。その後、雄勝郡から平鹿郡・さらに仙北郡へと北上した小野寺氏の勢力下に入り、小野寺氏の家臣金沢権十郎が居城とした[6]戦国時代にあっては、金沢城主は他の近隣大小領主からは比較的自立的な動きを示した。

常陸国戦国大名佐竹氏出羽久保田転封にともない、金沢城は佐竹義賢(東将監)、梶原美濃が受け取り、1622年元和8年)に破却された[6]。歴代の久保田藩主は清和源氏の流れを汲むことから八幡宮を保護した[注釈 2]。この神社に奉納される「金沢ささら」は、佐竹氏入部にともない下野国からもたらされた「茂木ささら」が源流といわれ、勇壮活発な舞で知られる[2][7]。また、六郷熊野神社とならび、金澤八幡宮でも古代の歌垣のなごりといわれる「かけ唄祭り」がおこなわれる。

1964年昭和39年)、公園設置条例により、横手公園とともに金沢公園となった。1970年代には、日発精密、丸巳繊維、厚木自動車部品などの工場がつぎつぎに誘致された[2]

金沢本町の桂徳寺に県有形文化財「木造阿弥陀如来坐像」、金澤八幡宮に県有形文化財「写経大般若波羅蜜多経)」が所蔵されている[2]

歴史 編集

  • 1083年(永保3年) - 後三年の役勃発。
  • 1087年(寛治元年) - 金沢柵が陥落し、後三年の役終結。
  • 1093年(寛治7年) - 金澤八幡神社建立。(1989年金澤八幡宮と改称)
  • 1876年(明治9年) - 金沢前郷村、金沢寺田村と六郷東根村の一部が合併し金沢村になる。金沢中野村と金沢中野新田村が合併し金沢中野村になる[1]
  • 1889年(明治22年)4月1日 - 市町村制が施行され、金沢村、金沢本町村、金沢中野村、安本村、野荒町村が合併し仙北郡金沢村が誕生する[1]
  • 1897年(明治30年)8月31日 - 町制をし金沢町になる[1]
  • 1956年(昭和31年)9月30日 - 横手市に編入される。
  • 1958年(昭和33年)4月22日 - 北部が横手市から仙南村に分市する。

旧高・旧領 編集

明治初年の石高は以下の通り[8]

旧高 旧領 旧県 備考
野荒町村 307.230988石 秋田藩(久保田藩) 秋田県 現美郷町
金沢前郷村 1058.488037石 秋田藩(久保田藩) 秋田県 現美郷町
金沢寺田村 516.085022石 秋田藩(久保田藩) 秋田県 現美郷町
金沢本町村 65.000000石 秋田藩(久保田藩) 秋田県 現横手市[注釈 3]
金沢中野村 881.664001石 秋田藩(久保田藩) 秋田県 現横手市
安本村 445.285004石 秋田藩(久保田藩) 秋田県 現横手市
合計 3273.753052石

後三年合戦にかかわる地名と伝承 編集

金沢柵ないし金沢城の周辺には、当時の地名と考えられる陣館、物見(斥候)山、西沼(飯詰村では「大沼」という)、蛭藻沼、御所野、陣ヶ森などの名称が横手市側に、武者隠しの森といわれる長岡森が美郷町側にのこり、伝承も数多くのこっている[9]。源義家が金沢柵に向かう途中、西沼(大沼)を通った際に、群れ飛んでいたが急に列を乱したことから、敵の伏兵を察知し、難を逃れたといわれるのが沼のほとり、立馬郊(現「平安の風わたる公園」)である[10][注釈 4]

郷土出身の人物 編集

郷土ゆかりの人物 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 後三年合戦の金沢柵攻城戦は日本史上初の兵糧攻めといわれている。
  2. ^ 佐竹氏は、源義家(八幡太郎義家)の弟源義光(新羅三郎義光)の子孫と称している。義光もまた、後三年合戦のときには当地を訪れたと記録されている。
  3. ^ 屋敷高のみ。
  4. ^ 「立馬郊」の名は、江戸時代後期の詩人頼山陽漢詩「八幡公」(『山陽詩鈔』壹、卷之二 第三葉に収載)のなかの「立馬邊城看亂鴻」(馬を立て辺城に乱鴻(らんこう)を看る)に由来している。

出典 編集

参考文献 編集

  • 石川雄造「金沢」『秋田大百科事典』秋田魁新報社、1981年9月。ISBN 4-87020-007-4 
  • 冨樫泰時「金沢柵遺跡」『秋田大百科事典』秋田魁新報社、1981年9月。ISBN 4-87020-007-4 
  • 冨樫泰時「金沢城跡」『秋田大百科事典』秋田魁新報社、1981年9月。ISBN 4-87020-007-4 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会(編集) 編『角川日本地名大辞典 5 秋田県』角川書店、1980年3月。ISBN 4040010507 

関連項目 編集

外部リンク 編集