鎌倉景正

平安時代後期の武将

鎌倉 景正(かまくら かげまさ/平 景正(たいら の かげまさ))は、平安時代後期の武将。父は桓武平氏の流れをくむ平景成とするが、平景通の子とする説もある。通称は権五郎。名は景政とも書く。

 
鎌倉 景正
『絵本写宝袋武者尽』より鎌倉権五郎景正。目を射られた姿が描かれている。
時代 平安時代後期
生誕 延久元年(1069年
死没 未詳
改名 権五郎(通称)、景正
神号 源正霊神
官位 不明
主君 源義家
氏族 桓武平氏鎌倉氏
父母 父:鎌倉景成、母:未詳
兄弟 景政景秀景経、梶原太郎景久
景継景門
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略歴

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父の代から相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも、鎌倉市由比ガ浜ともいわれる。

16歳の頃、後三年の役永保3年〈1083年〉 - 寛治元年〈1087年〉)に従軍した景正が、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。戦後、右目の療養をした土地には「目吹」の地名が残されている(現在の千葉県野田市)。

長治年間(1104年 - 1106年)相模国高座郡大庭御厨(現在の神奈川県藤沢市周辺)を開発して、永久4年(1116年)頃伊勢神宮に寄進している。

子の景継は、長承4年(1134年)当時の大庭御厨下司として記録に見えている。また『吾妻鏡養和2年(1182年)2月8日条には、その孫として長江義景の名が記されている。

なお1895年(明治28年)に九代目市川團十郎によって現行の型が完成された『歌舞伎十八番之内 』では、それまでは単に「暫」とだけ通称されていた主役が「鎌倉権五郎景政」と定められたが、実在の鎌倉景政からその名を借りただけである。

系譜

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尊卑分脈』による系譜では、景正を平高望の末子良茂もしくは次男良兼の4世孫とし、大庭景義景親梶原景時らはいずれも景政の3世孫とする。他方、鎌倉時代末期に成立した『桓武平氏諸流系図』による系譜では、景正は良文の系統とし、大庭景親・梶原景時らは景正の叔父(あるいは従兄弟)の系統とする。

景正の登場する系図は3種類あり、内2種類では香川氏大庭氏梶原氏などは景正の兄弟もしくは従兄弟に連なる家系としており、確かなことは判らない。

神社

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横浜市内の旧鎌倉郡にあたる地域(現在の栄区戸塚区泉区瀬谷区)に多く存在する御霊神社は概ね景政を祀っており、そのほか各地にも景正を祀る神社がある。

関連項目

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史料
古典芸能
  • 』(歌舞伎)

外部リンク

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