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長崎思元

鎌倉時代後期の武士

長崎 思元(ながさき しげん[1]、生年未詳 - 元弘3年/正慶2年5月22日1333年7月4日))は、鎌倉時代後期の武士。内管領を輩出した長崎氏の一族で、得宗被官御内人)として北条貞時高時に仕えた。「思元」は出家後の法名であり、俗名長崎高光(たかみつ)または長崎高元(たかもと)とされる(後述参照)。

人物編集

生涯編集

長崎三郎左衛門入道思元」の名が確認できる史料は数点残っており(後述参照)、実在した人物であることは確かである。

徳治2年(1307年)5月に出された「円覚寺大斎番文」では、円覚寺で催す毎月4日の北条時宗忌日斎会に四番衆として勤務すべき者として「長崎三郎左衛門入道」の名が確認でき、思元に比定されている[1][2]。この推定が正しければ、史料上での初見ということになり、また同年の段階で既に出家していたことになる。また、円覚寺伏見上皇宸筆額が下賜されることになったことを伝える11月7日付の金沢貞顕(当時六波羅探題南方、越後)の書状にある「長崎三郎左衛門入道」も同じく思元に比定され、この書状は延慶元年(1308年)のものとされる[3]

正和年間(1312年1317年)頃、鶴岡八幡宮評定衆として別当や供僧のことを沙汰したという[1]

元亨元年(1321年)、故・相馬師胤の遺領であった陸奥行方郡北田村を拝領するが、翌年にかけてこれを「押領」と主張する相馬重胤との間で相論になっている[4]。同3年(1323年)の北条貞時十三回忌法要に際しては、「長崎三郎左衛門入道思元」が布施取り役の公卿や殿上人らを催促したことが確認される[1][5]

正中2年(1325年11月22日、高時の長男(万寿丸、のちの邦時)が誕生すると、妻深沢殿が尼乳母となる形で邦時の乳母夫となる[1][6]元徳3年/元弘元年(1331年)のものとされる金沢貞顕の書状によれば、長崎高頼邸で火事があった際の被災者に「長崎三郎左衛門入道」が含まれており[7]、同書状で貞顕が高時の邸宅に類焼せず良かったと述べていることから、他の長崎氏一族と同様に高時邸の近くに住んでいたことが判明している[8]

以後の活動は『太平記』に描かれている。それによれば、元弘3年/正慶2年(1333年)に新田義貞率いる反幕府勢が鎌倉に攻め入った時、「長崎三郎左衛門入道思元・子息勘解由左衛門為基二人」が極楽寺坂を守って奮戦の後、やがて父子別行動をとることとなったという[9]。同記事ではこれが今生の別れかと涙にくれて立ち去り難くしている為基に対し、思元は「何か名残の可惜る、独死て独生残らんにこそ、再会其期も久しからんずれ。我も人も今日の日の中に討死して、明日は又冥途にて寄合んずる者が、一夜の程の別れ、何かさまでは悲かるべき。」(どうせ皆今日討ち死にして明日には冥土で再会するのだから一夜別れるのを悲しむことはない)と大声で激励叱咤して立ち去らせたというエピソードを伝えている。為基と別れた思元はその後主君・高時らのいる東勝寺に赴いたようで、同寺にて自害した者の中に「長崎三郎左衛門入道思元」も含まれている[10]。これに従えば1333年5月22日の東勝寺合戦で自害したということになる。

俗名、系譜、親族について編集

実名は不詳だが、『系図纂要』の長崎氏系図には為基(通称:勘ケ由左衛門尉)の父に高光(別名高元、三郎左衛門尉、入道昌元、元弘3年5月21日討死)を載せており、続柄に加え通称や法名、死没の時期もほぼ共通していることから、この高光が思元を指すと考えられている[1]。但し、「高」字は北条高時の偏諱であり、高時が元服した延慶2年(1309年1月21日[11]以前は別名を称していた筈である[12]が、それが分かる史料は今のところなく、また実際に「高光」或いは「高元」を名乗っていた形跡も確認はできない。別名として「頼基」(よりもと)の名も伝わる[13]が真偽のほどは不明。一方で、法名より出家前の通称は『系図纂要』が示す「長崎三郎左衛門尉」であったこと確実である。

高光は同系図において長崎光盛の子(平盛綱の孫)、光綱の弟に位置付けられており、正しければ長崎円喜の叔父ということになる。同系図では高光の兄弟として光綱のほか、高泰泰光の父)、師家を載せている。

妻は「深沢殿」と呼ばれ、北条邦時の尼乳母であったことは前述の通りであるが、出自は不明で為基の母であったか否かも定かではない。

その他、元弘3年(1333年)12月日付の「南部時長目安状」[14]の文中に「武行者為長崎三郎左衛門入道思元聟、属同四郎左衛門尉高貞、」と明記されており、南部武行[15]が思元の娘婿であったことが判明している。

脚注編集

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  1. ^ a b c d e f 『北条氏系譜人名辞典』P.117「長崎思元」の項(執筆:森幸夫)。
  2. ^ 『円覚寺文書』、『鎌倉遺文』30巻・22978号、『鎌倉市史』史料編「円覚寺文書」42号。
  3. ^ 細川、2000年、P.205。
  4. ^ 『相馬文書』。元亨元年12月17日付「相馬重胤申状」(『鎌倉遺文』36巻・27918号)および元亨2年7月4日付「関東御教書」(『鎌倉遺文』36巻・28086号-2)の文中に「長崎三郎左衛門入道思元」の名が確認できる。
  5. ^ 『円覚寺文書』。『神奈川県史 資料編2 古代・中世(2)』2364号文書、『鎌倉市史』史料編「円覚寺文書」69号。
  6. ^ 同日付とされる「金沢貞顕書状」(『金沢文庫古文書』武将編368号、『鎌倉遺文』38巻・29255号)に「尼御乳母ふかさわ殿三郎左衛門入道妻」とあり、思元に比定されている(細川・2000年・P.181 注(41)、および、永井・2006年・P.183 注(27))。
  7. ^ (年未詳)正月10日付「金沢貞顕書状」(『金沢文庫古文書』武将編456号、『鎌倉遺文』41巻・32185号、『神奈川県史 資料編2 古代・中世(2)』3083号)
    御吉事等、於今者雖事旧候、猶以不可有尽期候。
    抑自去六日神事仕候而、至今日参詣諸社候。仍不申候ツ。今暁火事驚入候。雖然不及太守禅閤御所候之間、特目出候。長崎入道同四郎左衛門尉同三郎左衛門入道同三郎左衛門尉尾藤左衛門入道南條新左衛門尉等宿所炎上候了。焼訪〔ママ、焼亡カ〕無申計候。可有御察候。火本者、三郎左衛門尉宿所ニ放火候云々。兼又御内御局数御返事、昨日被出候。進之候。又、来十二日無御指合候者、早旦可有入御候。小點心可令用意候。裏可承候。恐惶謹言。
     正月十日 崇顕
    方丈進之候
  8. ^ 細川、2000年、P.211~212、注(3)。
  9. ^ 『太平記』巻10「鎌倉兵火事付長崎父子武勇事」。
  10. ^ 『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」。
  11. ^ 細川、2000年、巻末「鎌倉政権上級職員表」No.9「北条高時」の項。典拠は『鎌倉年代記』正和5年条、「北条時政以来後見次第」。
  12. ^ 細川、2000年、P.183注(61)、および、P.184注(73)では、長崎円喜(『系図纂要』での俗名は高綱)とその子・高資について同様の見解を示しており、各々「盛宗」、「資?」(2文字目不詳)と名乗っていたことが史料で確認されている(詳細については当該項目を参照のこと)。
  13. ^ 南北朝列伝#長崎思元武将系譜辞典#鎌倉幕府武家家伝_長崎氏に掲載の系図(いずれも外部リンク)による。
  14. ^ 『遠野南部文書』。『鎌倉遺文』42巻・32810号。
  15. ^ 「南部時長目安状」の文中に「武行親父孫三郎宗実」とあり、『尊卑分脉』に従えば、宗実までの系譜は南部光行実光―時実―宗実である。すなわち、南部氏の始祖・光行の玄孫にあたる。

参考文献・史料編集

史料
図書