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長崎派(ながさきは)とは、江戸時代鎖国体制下において唯一外国(オランダ中国葡萄牙(ぶどうが))との交渉があった長崎で生まれた様々な諸画派の総称である。

この諸画派は、漢画派(北宗画派)・黄檗派唐絵目利派(写生派)・南蘋派南宗画派(文人画派)・洋風画派長崎版画の7つに大別できる。これらに共通の主張や特定の様式があるわけではない。 長崎を通じて外国から流入した新様式が上方江戸の中央画壇に広まり新興の絵画芸術を生む契機となった。とりわけ南蘋派の影響は大きく、近世絵画に写実性を追求する姿勢が芽生えた。

なお、篆刻にも源伯民を祖とする長崎派が登場する。こちらも同様の歴史的背景から中国黄檗僧によってもたらされた工芸美術であるが画派とはいえず、ここには分類されない。

目次

概説編集

長崎は開港以前からキリスト教と深い関わりをもち、その後も一大布教地域であったため17世紀初めには市内に多数の信者を有し10以上の教会が建てられていた。教会の中の画学舎では布教や礼拝用の聖画像などがさかんに制作され、信者や制作者は既にキリスト教美術の洗礼を受けていた[1]。秀吉のキリスト教禁教以後も細々とこのキリスト教美術の技法が「蛮流」として受け継がれ、文献に生島三郎左や野沢久右衛門という洋風画法を取り入れた画人が存在したことが伝わっている。しかし、18世紀後半にはすっかり途絶えてしまいその作品もまったく伝わっていない。 ともあれ、こうして長崎には洋風画を受け入れる土壌が培われたのであるが、一方で頻繁に画僧・画人が中国から渡来した。正保年間の黄檗僧逸然性融の来日が嚆矢となり、以後沈南蘋伊孚九費漢源などが来日した。 このキリスト教美術の浸透・中国文化の流入に加え、狩野派土佐派などの従来からの美術様式や、職業的な目的をもった唐絵目利の画家などが長崎という一地域に渾然となって存在し、長崎派の諸派を発生させる源泉となった。

このように長崎派は、江戸時代の長崎の特異な位置づけと深く関係しており、その絵画史は次の3つの時期に分けられる。[2]

  • 第1期は開港した元亀2年(1571年)から長崎からポルトガル人が追放される寛永16年(1639年)まで。
  • 第2期はポルトガル人退去後、初(17世紀中頃から終わり)の戦乱を逃れて亡命した中国人によってもたらされた中国文化、とりわけ黄檗文化が伝播した時期。
  • 第3期は19世紀初頭の文化文政期に唐絵目利の画家や町民画家と清朝の画風が混ざり合って相互に影響し活況を呈した時期。

300年近くにもわたり海外からの文化的・美術的な刺激を真っ先に受けた長崎の特異な土壌が長崎派を醸成した。その都度、絵画の新様式を中央に伝播させ、日本画壇に新興芸術を誕生させる役割を担ってきた。しかし、開国後一時南宗画文人画)系の祖門鉄翁木下逸雲らが人気を博したものの、長崎派はしだいにその輝きを失い、明治以降は急激に停滞しその役割を終えた。

各画派編集

漢画派(北宗画派)編集

この画派は長崎漢画もしくは唐絵と呼ばれ、主に画の影響が色濃い。代の絵画様式を模倣した室町時代水墨画とは別系統の漢画である。 正保2年(1642年)来日した黄檗僧逸然性融は長崎漢画の祖と呼ばれ、羅漢達磨布袋像などの道釈人物画を多く画いた。逸然以前にも范道生陳璜陳玄興といった渡来画人が画作している。また陳賢の道釈人物図が渡来僧によって幾たびか持ち込まれた。これらの画人の作品は長崎漢画成立の源流となった。逸然の門弟に河村若芝渡辺秀石などが育ち、北宗画風の漢画を善くした。逸然のほかにも絵画をたしなむ黄檗僧は多く、この画派は長崎派の主流とされる。河村若芝は一家をなし門下に上野若元山本若麟牛島若融らがつらなり幕末まで続いた。またのちに唐絵目利となった小原慶山も一時若芝の門下にあった。渡辺秀石は唐絵目利職となり唐絵目利派の元祖の一人となった。

黄檗派編集

黄檗宗の渡来僧がもたらした黄檗美術のうちでも頂相(僧侶の肖像画)を中心とした黄檗画像は濃厚な色彩表現と顔貌の正面性、その陰影法に特徴がある。これは代に江南地方で活躍した肖像画家曽鯨の流れを汲む様式である[3]隠元が日本にもたらした「費隠通容像」は曽鯨の門弟のひとり張琦の作で当時日本の画家に衝撃をもって迎えられた。同じく曽鯨門とされる楊道真は隠元に随行してきた画人で主に隠元像を手がけた。その弟子となった喜多長兵衛(喜多道矩[4]は隠元・木庵即非画像を中心に制作をした。道矩の子の喜多元規は黄檗派の代表格に挙げられ黄檗僧に限らず、在留唐人や大名など各地に200以上の肖像画を残している。「隠元禅師像」・「独立和尚像」・「鍋島直条像」などが有名。黄檗画像の表現法は、のちの鶴亭片山楊谷などが受け継がれ南蘋派などと混交して独特の画法を生んだ。またその写実的表現は長崎版画(長崎絵)にも影響を与えた。

唐絵目利派(写生派)編集

唐絵目利派(からえめききは)は、唐絵目利職についた画家によって形成された。この職は輸入される書画の鑑定・価格評価だけでなく、器物や鳥獣類の写図を画き記録することを重要な職務とし、一方で長崎奉行所御用絵師の役割も兼ねた。その職責のために写実性が要求され、洋風画や黄檗派の頂相などの写実的な画法を吸収しながら発展した。逸然門下の渡辺秀石が17世紀末に唐絵目利職に就き、ついで河村若芝に画技を受けた小原慶山もこの職に就いた。秀石や慶山は長崎土産となるような長崎の風俗画や異国情緒のある花鳥図・人物図を残している。その後、広渡一湖石崎元徳が任命され、荒木元慶も手伝に任ぜられ荒木元融のとき本役となった。以降の唐絵目利は渡辺家・広渡家・石崎家・荒木家の四家の世襲となり、門弟を含めて多くの画家を出した。荒木家や石崎家は洋風画への傾向をしだいに強くし、文化文政期には石崎融思荒木如元といった洋風画家を生んだ。

作品資料編集

南蘋派編集

享保16年(1731年)に来日した清朝の画家沈南蘋とその一派による画派。細密な彩色花鳥画に特長がある。従来から継承されてきた狩野派土佐派の硬直的な絵画様式を打破する原動力となり、円山応挙伊藤若冲など新興の画家の台頭を惹起した。

南宗画派(文人画派)編集

日本の初期文人画[5]に先立つ半世紀以上前に既に渡来僧の独立性易化林性偀文人的色彩が強い水墨画を多く残している。和僧の蘭谷元定百拙元養も文人趣味が横溢した作品を画いた。

享保5年(1720年)に伊孚九が来舶し、長崎に南宗画を伝えた。池大雅桑山玉洲などの多くの画家が私淑した。続いて来日した費漢源(享保19年・1734年)・張秋穀天明6年・1786年)・江稼圃文化元年・1804年)と合わせて来舶四大家と呼ばれる。このほかにも宋紫岩徐雨亭陳逸舟など多くの清人が長崎に南宗画を伝えている。別系統で日本に伝わっていた南画と渾然一体となり全国に広まっていった。長崎の南宗画派からは幕末に鉄翁祖門木下逸雲などの優れた文人画家を輩出した。

洋風画派編集

キリスト教美術の洗礼を早くから受け入れていた長崎では、続いてオランダ人によって西洋画法が持ち込まれるなどして全国に先駆けて生島三郎左や野沢久右衛門などの蛮流と呼ばれる初期の洋風画家[6]が誕生している。その後、18世紀後半に若杉五十八、ついで唐絵目利の荒木如元石崎融思シーボルトのお抱え絵師である川原慶賀などが現れた。司馬江漢などの蘭学を修めた画家と比較すると長崎の洋風画派は画工の域を出ず、個性を主張することはまれであった。

長崎版画編集

古い作品では正保2年(1645年)に刊行された木版画『万国総図』が知られるが、初期のものは大半が無落款であるため、作者名は不明である。およそ安永 (元号)天明頃から作品の数が増加し始め、最盛期は文化文政期であった。大半は唐人屋敷に住んでいた唐人、出島屋敷に住んでいたオランダ人を描いたものである。

長崎に遊学した主な画家編集

参考文献編集

  • 『崎陽画家略伝』(著者不詳)
  • 渡辺秀実『長崎画人伝』
  • 荒木千洲『続長崎画人伝』
  • 朝岡興禎編『長崎画系』
  • 虞千里『長崎先民伝』享保16年(1731年)
  • 西川如見『長崎夜話草』享保4年(1719年)

脚注編集

  1. ^ 16世紀初頭に始まる宗教改革では偶像崇拝が否定されたが、カトリックは逆手にとって聖母像を布教の道具として最大限に利用し、日本では大歓迎され、宣教に絶大な効果を生んだ。やがて輸入品だけでは足りなくなり、画学舎が設立された。その中にはジョバンニ・ニコラオもいた(宮下規久朗『欲望の美術史』(光文社新書 2014年p.145))。
  2. ^ 越中哲也『長崎の美術・工芸 ― 長崎文化史序説』蝸牛社 1981年
  3. ^ 錦織亮介『黄檗禅林の絵画』2006年 中央公論美術出版
  4. ^ 喜多宗雲説がある
  5. ^ 日本最初の文人画家である祇園南海は18世紀初頭に初めて山水図(1707年)を手がけている。
  6. ^ 洋風画とは、一般的に遠近法や陰影法などの表現法を取り入れるばかりでなく、その題材が西洋人や西洋の事物・風景である場合、あるいは画材が油彩やキャンパスであることも含める。

出典編集