阿部 正静(あべ まさきよ)は、江戸時代後期の大名陸奥国白河藩の第8代藩主。陸奥棚倉藩主。忠秋系阿部家16代。

 
阿部正静
阿部正静
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 嘉永2年11月28日1850年1月11日
死没 明治11年(1878年1月23日
改名 録太郎・長吉郎(幼名)、正静
戒名 大清院殿高誉智峯正静
墓所 多磨霊園(西福寺から改葬)
官位 従五位下、従五位、美作守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜
陸奥白河藩主→陸奥棚倉藩主→白河藩主→棚倉藩主
氏族 阿部氏
父母 阿部正外:家女
兄弟 正静、勝、礼、三郎ら
正室須田津次郎の娘
継室阿部正備の娘・
喜久、信一郎
養子正功
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略歴 編集

後に白河藩第7代藩主となる阿部正外の長男。元治元年(1864年3月4日、3000旗本出身の父が本家の白河藩主・阿部正耆の急死で白河藩主(10万石)の座を継承したことに伴い、正静は父が保持していた旗本の家督を継いだ。しかし翌慶応元年(1865年)10月に父が兵庫開港要求事件により朝廷江戸幕府から謹慎処分にされた上、慶応2年(1866年6月19日に父が強制隠居処分となったため跡を継いだが、同日に棚倉藩への転封を命じられ、財政逼塞、家臣団を迎える屋敷が手狭など理由をつけて幕府に延期を願い出た。

やがて慶応3年(1867年)1月に正静は棚倉藩へ移封したが、交代で白河藩主になるはずだった棚倉藩主・松平康英の移転先が変更、康英は武蔵国川越藩へ転封、白河藩は天領とされ幕府の小名浜代官の支配となり、同年8月に白河城が幕府の役人へ引き渡された。翌慶応4年(明治元年、1868年)2月に阿部家に幕府から白河再封の命令が下ったが、3月に中止となり実行されず、白河は領主不在のままとなる一方で白河城は二本松藩(後に会津藩)の管理下に置かれた[1]

同年から始まった戊辰戦争では、消極的な立場から奥羽越列藩同盟に参加していたが、5月1日白河口の戦いにて列藩同盟軍は新政府軍に敗れ、白河藩では家老の阿部正煕(阿部内膳)が戦死、6月24日に父が守備していた棚倉城板垣退助率いる官軍により陥落した。正静は生き残った藩士らと分領の保原に移動、9月18日保原陣屋で降伏した。12月、新政府より同盟に参加した罪を問われたが、主導したのは家老の阿部内膳である、と釈明することで改易は免れ、4万石削減の6万石となった上、家督を義理の叔父・正功(正耆の実子)に譲って東京へ強制隠居処分に処せられた。[2]明治11年(1878年)1月23日、東京で死去した。享年28[3]

実子に喜久(1866年 - 1887年)、信一郎(1868年 - 1871年)がいたが、いずれも早世している[4]

系譜 編集

父母

正室、継室

子女

  • 喜久
  • 阿部信一郎

子女

脚注 編集

  1. ^ 藩主人名事典編纂委員会、P84、P109、新人物往来社、P125、白河市、P395、P513 - P515、安田、P54。
  2. ^ 阿部内膳の家は明治2年5月に絶家処分。内膳の父の阿部秋風は明治期に書家・俳人として活躍。
  3. ^ 藩主人名事典編纂委員会、P84 - P85、新人物往来社、P125 - P129、白河市、P395、P521 - P531、P537、P546、安田、P54。
  4. ^ 学習院大学史料館、P395。

参考文献 編集

  • 藩主人名事典編纂委員会編『三百藩藩主人名事典 第一巻』新人物往来社、1986年。
  • 新人物往来社編『三百藩戊辰戦争事典』新人物往来社、2000年。
  • 学習院大学史料館編『陸奥国棚倉藩主・華族阿部家資料 学習院大学史料館収蔵資料目録』学習院大学史料館、2001年。
  • 白河市編『白河市史 第二巻 通史編2 近世』白河市、2006年。
  • 安田昭男編『幕末維新大人名事典【上】』新人物往来社、2010年。