静岡市立清水第二中学校
静岡市立清水第二中学校(しずおかしりつ しみずだいにちゅうがっこう)は、静岡県静岡市清水区に所在する公立中学校。
静岡市立清水第二中学校 | |
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北緯35度00分25秒 東経138度28分48秒 / 北緯35.00693度 東経138.48013度座標: 北緯35度00分25秒 東経138度28分48秒 / 北緯35.00693度 東経138.48013度 | |
過去の名称 | 清水市立第二中学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 静岡市 |
設立年月日 | 1947年4月1日 |
共学・別学 | 男女共学 |
学期 | 2学期制 |
学校コード | C122210001207 |
所在地 | 〒424-0852 |
静岡県静岡市清水区神田町4番57号 | |
外部リンク | 公式サイト |
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沿革
編集経緯
編集静岡市立第二中学校は、1937年(昭和12年)3月28日、清水市の尋常高等小学校各校の高等科を分離独立させ、清水市立忠愛高等小学校として設立された。その後、1941年(昭和16年)4月1日、国民学校令により清水市立忠愛国民学校と改称。第二次世界大戦後の学制改革によって、1947年(昭和22年)4月1日、清水市立第二中学校となった。2003年(平成15年)4月1日、清水市と静岡市との合併により、静岡市立清水第二中学校に改称され、現在に至る[1]。
年表
編集卒業アルバム事件
編集1987年10月頃から、清水市立第二中学校(当時)は翌年の卒業アルバムの制作にとりかかった。校則に違反する髪型や服装をした約10名の生徒に対しては、正して写真を撮るよう指導したが、そのうち男女4名の生徒は是正を拒否。提出期限の1988年1月末になっても応じなかったことから、学校は生徒たちの顔写真を花壇の花の写真に差し替えて卒業アルバムを発行した[2][3]。
「卒業アルバム事件」は新聞各紙で報じられ、同年3月31日には参議院法務委員会で取り上げられるに至った。橋本敦は同委員会で、第二中学の措置は人格権の侵害であり、児童憲章違反であるとして当局を追及した[2]。
これを契機として文部省は方針を180度転換。同年4月25日、文部省初等中等教育局長は都道府県教育委員会中等教育担当課長会議において、校則の見直しを教育委員会に対し指示した。校則を最小限のルールにとどめること、児童生徒の自主性尊重などが促された[4][5][6][7]。
小学校区
編集設備
編集大きな施設としては、北校舎・南校舎・体育館があり、そのほか運動部の部室や倉庫や配膳室などがある。北校舎は4階建て、南校舎は3階建てとなっている。体育館に関しては、1回がトイレや武道場などで、2階が大きなアリーナとなっており、3階にはアリーナが見渡せるスペースがある。空調設備は、ほとんどの教室冷暖房がある。 敷地内に2箇所、テニスコートがある。
出身者
編集脚注
編集- ^ 清水市立第二中学校沿革
- ^ a b “第112回国会 参議院 法務委員会 第2号 昭和63年3月31日”. 国会会議録検索システム. 2021年6月28日閲覧。
- ^ 朝日新聞静岡支局編『卒業アルバムから子どもの顔が消えた。―検証・静岡の教育』二期出版、1989年5月。
- ^ 児山正史. “校則見直しに対する文部省・教育委員会の影響(1) 公共サービスにおける利用者の自由”. CiNii. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “岡崎市議会 昭和63年6月 定例会 06月08日-08号”. 岡崎市会議録検索システム. 2021年6月22日閲覧。
- ^ “生徒指導関係略年表について”. 文部科学省. 2021年6月29日閲覧。
- ^ 森山昭雄『丸刈り校則 たった一人の反乱』風媒社、1989年3月31日、100-101頁。ISBN 978-4833109321。
- ^ a b “ピエール瀧の少年時代が蘇る!?『狐ヶ崎ヤングランド』思い出バスツアー”. ピエール瀧のしょんないTV. 静岡朝日テレビ (2013年1月10日). 2015年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年1月23日閲覧。