長野県高遠高等学校

長野県伊那市高遠町にある公立高等学校
高遠高校から転送)

長野県高遠高等学校(ながのけん たかとおこうとうがっこう)は、長野県伊那市高遠町小原にある公立高等学校。町立高遠実業補習学校として、1926年に創立され、その後幾多の変遷を経て1949年(昭和24年)に組合立から県立に移管された。

長野県高遠高等学校

長野県高遠高等学校(2017年1月撮影)
地図北緯35度49分48.1秒 東経138度3分23.8秒 / 北緯35.830028度 東経138.056611度 / 35.830028; 138.056611座標: 北緯35度49分48.1秒 東経138度3分23.8秒 / 北緯35.830028度 東経138.056611度 / 35.830028; 138.056611
国公私立の別 公立学校
設置者 長野県の旗 長野県
設立年月日 1926年4月1日
(町立高遠実業補習学校)
共学・別学 男女共学
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学校コード D120220900039 ウィキデータを編集
高校コード 20154F
所在地 396-0293
長野県伊那市高遠町小原824番地

長野県高遠高等学校の位置(長野県内)
長野県高遠高等学校
外部リンク 公式ウェブサイト(日本語)
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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概要

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県内で初めて推薦入試やコース制選択単位制を導入するなど先進的な取り組みを行っており、普通科の中に進学コース・芸術コース(音楽・美術・書道)・福祉コース・情報ビジネスコースの4つのコースがある。

1984年度に高遠城址公園内にあった本校校舎が老朽化し、建替え時を迫られた際、伊那市(旧)などから伊那市東部への移転を打診されたが、「高校がなくなると地域が寂れる」との当時の高遠町および長谷村の強い要望を受け、旧高遠町内に留まった。その関係から両町村との強いパイプを有し、本校のIT化、コース制導入時に協力費等が支出された。[要出典]

城址公園のコヒガン桜が咲く時期になると駐車場として、校庭を土日に限り無料開放している。また、駐車場になっている期間の週末には、芸術コース音楽専攻の生徒による琴の演奏を披露している。

江戸時代高遠藩の藩校進徳館の「拓世、迫真の実学」の精神を教育方針に据えている。

沿革

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校章

前身校

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  • 1899年 - 町立高遠実業補習学校(高遠尋常高等小学校併設)。(長野県上伊那誌現代社会篇p.1200、高遠町誌p.237)
  • 1907年 - 高遠尋常高等小学校に補習科が創立。一部(高等小学校補習科)、二部(女子裁縫科)、三部(男子夜学科)、四部(子守科)を置いて補習教育を始めた[1][2]
  • 1914年 - 一部(高等補習科)、二部(夜学科)、三部(裁縫科)とした[3]
  • 1917年 - 予科一・二年、本科一・二・三年・研究科とした[3]
  • 1922年 - 前期(尋小を卒業したもの)一・二年、後期(前期を終了したもの)一・二・三年・研究科とした[3]
  • 1926年 - 通年制実施に伴い、町立高遠実業補習学校として独立、並びに町立高遠青年訓練所(四か年)を併設[4][3]
  • 1935年 - 青年学校令 により、実業補習学校、青年訓練所を統合し、町立高遠柘植青年学校に校名を変更[5][6]
  • 1936年 - 女子部を独立し、町立高遠実科高等女学校 設立[4][7][8]
  • 1943年 - 高遠実科高等女学校を町立高遠高等女学校と改称[4][7][8]
  • 1944年
    • 実業学校令により高遠農業学校設立[4][7]
    • 拓殖青年学校が町立高遠農学校(三年制)に昇格[9]
  • 1948年 - 町立高遠高等学校が設立、移転、高遠と近隣町村の組合立に移管[4][10]。町立から組合立に移管。東部一町六か村(高遠町、長藤村、三義村、河南村、藤沢村、美和村、伊那里村)(高遠町誌p.238)

県立移行後

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出身者

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交通

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脚注

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参考文献

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  • 『信州高遠学校百年史』信州高遠学校百年史刊行委員会、高遠町、1972年。 
  • 高遠高校の歩み編集委員会 編『高遠高校の歩み 高等学校の歩み―その八十五年―』高遠高校の歩み刊行会、高遠町、1985年7月。 
  • 「高遠のあゆみ」編集委員会 編『高遠のあゆみ』高遠町、高遠町、1996年9月。 
  • 長野県高等学校同窓会東京連合会 編『信州の高校と同窓連』長野県高等学校同窓会東京連合会、1985年。 

関連項目

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外部リンク

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