鶴城(かくじょう)は、長崎にあった桜馬場城(さくらばばじょう)とも呼ばれた[注釈 1]廃城となっており、その遺構は長崎市片渕町2丁目・夫婦川町・鳴滝町の3ヵ町にまたがっている[1]

石垣跡

城山は、舞岳[注釈 2]・春徳寺山[注釈 3]・唐渡山(とうどさん)[注釈 4]などとも称された[1]

構造 編集

 
石切り場跡

城は標高101.8メートルの丘陵の上に築かれていた。城跡の西側には幅50メートル、高さ30メートルほどの切り立った岩壁がある。東側には石垣が残っており、その間の南北に細長く伸びた山頂の一部に本丸があったとされる。大手門は西側にあったと考えられている[1]

南西側には巨岩が露出している。下に流れる中島川の役目を果たし、自然の要害となっていた[1]

城主の長崎氏の居館は山麓に築かれ、隣接する地に長崎最初の教会であるトードス・オス・サントス教会が永禄10年(1567年)に創建された[注釈 5][1]

城の東側にある幅50メートル・高さ30メートルの切り立った石壁は、江戸時代に中島川の架橋用に石材を切り出した場といわれている[1]

歴史 編集

築城時期・築城者は未詳だが、南北朝時代に、深堀氏への備えとして長崎氏によって築かれたと推測されている[1]

『長崎群談』には、

長崎の地ハ、昔日深江浦といひて、漁者樵父の類ひのミ居住し、まことに鄙辺の遠境なりしに、文治の頃、頼朝の卿治世の折から、長崎小太郎何某といひしものを地頭に補し、差下されしより、小太郎居民を随へて領地し、夫より彼子孫連綿として不絶、今の春徳寺の上なる山に塁を構へて、幾春秋を送り迎へしよし、此故に深江を改めて、長崎とはいふ也[注釈 6]

とある[2]

文治元年(1185年)に全国に守護地頭が置かれた際に、地頭に就任して九州に下ってきた長崎小太郎は、それまで深江と呼ばれていた土地を長崎という地名に変えたと伝わる。それより長崎氏は代々この地を領地とし、山の上に城を構えた。この山の麓には、後にトードス・オス・サントス教会が、教会が破却された後は春徳寺が建立された[3]

戦国時代に、城主が長崎純景(長崎甚左衛門)だったころ、天正元年(1573年)・同6年(1578年)・7年(1579年)・8年(1580年)に深堀純賢による侵攻を受けた。城下町は焼き払われ、城塞の下手の家々や教会も焼かれた。天正6年に、当時の長崎氏宗家だったミゲル[注釈 7]豊臣秀吉の軍勢が到着すれば城の破壊を命じられると考え、その前に城に火を放って家族を率いて低地に下っていったという[注釈 8][1]

城の古址 編集

長崎市立桜馬場中学校は城の跡地に建設されたと伝えられている。城の遺構は現地の長崎市民からは城の古址(しろのこし)と呼ばれている。同地は、ハタ揚げ(凧揚げ)の名所でもあった[1][4][5]

1881年明治14年)、城の古址がある山中に八十八ヶ所の霊場が設けられた。承応年間に開創された観音堂を中心に、山中に88体の大師像が設置されたが、現在は荒廃している[4]

城にまつわる伝承 編集

 
不動堂と竜頭巌

山頂部にある本丸跡に、竜頭巌(りゅうずがん、龍頭巌)または石龍石と呼ばれる大きな岩がある。長崎代官末次家2代目の末次茂貞(もしくは3代目の末次茂房)が父・政直の石郭を造るために竜頭巌の一部を切り出そうとしたところ、岩の間から血がにじみ出たため工事を中止したという伝説が残っている[注釈 9][4][6]

竜頭巌の側にある不動堂内の不動明王像背後には末次政直の法名が刻まれている[4]

竜頭巌には、たけ女という美少女が閉じ込められたというタンタンタケジョの伝説が残る。岩面を竹で叩くとタケジョ、タケジョと鳴るという[1][4]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 『木村家覚書』。
  2. ^ 『長崎古今集覧』。
  3. ^ 『長崎実録大成』。
  4. ^ 『長崎古今集覧』『長崎名勝図絵』。
  5. ^ 教会は禁教時代に破却された。
  6. ^ 『長崎群談』19頁。
  7. ^ 純景の弟・重方と推測されるが不明。
  8. ^ ルイス・フロイス『日本史』。
  9. ^ 『長崎名勝図絵』。

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j 「城の古址」『長崎県大百科事典』長崎新聞社、438頁。『日本歴史地名大系 43 (長崎県の地名)』平凡社、187-188頁。「かくじょう 鶴城<長崎市>」「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典』角川書店、274頁。外山幹夫『長崎 歴史の旅』朝日新聞社、106頁。
  2. ^ 白石広子『長崎出島の遊女』勉誠出版、38頁。
  3. ^ 白石広子『長崎出島の遊女』勉誠出版、39頁。
  4. ^ a b c d e 『長崎学ハンドブックⅢ 長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)』長崎市立博物館、103頁。『長崎学ハンドブックⅢ 長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)』長崎市立博物館、85頁。
  5. ^ 姫野順一『古写真に見る幕末明治の長崎』明石書店、170頁。
  6. ^ 外山幹夫『長崎 歴史の旅』朝日新聞社、106頁。

参考文献 編集

  • 片桐一男『江戸時代の通訳官 阿蘭陀通詞の語学と実務』吉川弘文館、2016年3月。ISBN 978-4-642-03472-2 
  • 白石広子『長崎出島の遊女 近代への窓を開いた女たち』勉誠出版、2005年4月。ISBN 4-585-07111-3 
  • 外山幹夫『長崎歴史の旅』朝日新聞社朝日選書〉、1990年10月。ISBN 4-02-259511-6 
  • 姫野順一『古写真に見る幕末明治の長崎』明石書店、2014年6月。ISBN 978-4-7503-4022-7 
  • 長崎新聞社長崎県大百科事典出版局 編『長崎県大百科事典』長崎新聞社、1984年8月。全国書誌番号:85023202 
  • 平凡社 編『日本歴史地名大系』 43(長崎県の地名)、平凡社、2001年10月。ISBN 4-582-49043-3 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 42(長崎県)、角川書店、1987年7月。ISBN 4-04-001420-0 
  • 『長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)』長崎市立博物館、2002年11月。 
  • 『長崎学ハンドブックⅢ 長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)』長崎市立博物館、2004年3月。