鶴賀新内
初代編集
(延享4年(1747年) - 文化7年7月4日(1810年8月3日))
初代鶴賀若狭掾の高弟で弟子だった鶴賀斎の弟で生まれつき目が不自由であったとされる。初代加賀歳、若歳名乗った後に新内の名を相続。
「藤蔓恋の柵」「二世の環襷」等を作曲。
2代目編集
(生没年不詳)初代(先代)同様に目が不自由であった。通称を彦次郎(のちに吉右衛門)。
初代の門弟で2代目加賀歳、1814年に2代目新内を襲名。後に豊名賀薗太夫や鶴賀出雲掾、津留賀文彌等を名乗る。
1827年以降消息不明。
4代目編集
(文政9年(1826年) - 明治16年(1883年)1月26日)
江戸の生まれ、3代目新内、2代目鶴吉の実子。初名を貞之助。1855年に母没後3代目鶴吉を襲名。鶴賀若狭太夫を襲名。1868年に4代目新内を襲名。通称を庄兵衛。
妹が4代目鶴吉。
実子は2代目若狭太夫(新内を襲名することなく失踪。)
5代目編集
(嘉永2年(1849年) - 明治40年(1907年)6月24日)本名は鈴木重太郎。
江戸京橋南小田原町の魚屋の親方。5代目新内の2代目鶴賀若狭太夫が失踪した為に再興し1892年に6代目新内を襲名。後に祖元と改名。あだ名を出身地から「築地の三熊」と呼ばれる。
実子が7代目新内。
6代目編集
(明治14年(1881年) - 明治44年(1911年)5月21日)
東京の生まれ父は6代目新内。妻は5代目鶴賀鶴吉。1906年に7代目新内を襲名。
実子が8代目新内、2代目鶴賀若狭掾。