鷹架沼
鷹架沼(たかほこぬま)は、青森県下北半島の太平洋岸に位置する汽水の沼である[2]。最大水深7m。全域が上北郡六ヶ所村にあり、太平洋との接続部にはむつ小川原港が建設されている。
鷹架沼 | |
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所在地 |
日本 青森県上北郡六ヶ所村 |
位置 | 北緯40度56分 東経141度20分 / 北緯40.933度 東経141.333度座標: 北緯40度56分 東経141度20分 / 北緯40.933度 東経141.333度 |
面積 | 5.43[1] km2 |
周囲長 | 22 km |
最大水深 | 7.0 m |
水面の標高 | 0 m |
成因 | 海跡湖 |
淡水・汽水 | 淡水 |
プロジェクト 地形 |
六ヶ所村の小川原湖湖沼群の六つの沼の中で一番大きい。東西に長い形をしており、下北半島を大きく西へ噛みとっている。このため、かつて半島を横断する運河を掘る計画があったこともある(後述)。
古くは漢字表記に揺らぎがあり、高架沼と表記されることもあった。幕末の盛岡藩士 漆戸茂樹の記した『北奥旅程記』には鷹架沼が図示されており、およそヒョウタン型で「長さ三千五百六十間、惣廻八千二百四十間」、奥に室ノ久保村、南岸に鷹架村が書き込まれているのが見える[3]。 名前の由来はアイヌ語の「ト・カ・ホルカ」(to-ka-horka、沼の・上手の・後戻りする川)という[4]。
地誌
編集東西約5km、南北約0.5kmと東西に長い[2]。尾駮沼、市柳沼などとならび、川が砂州によって堰き止められてできた堰止湖で、西から戸鎖川(後川)が流入し、東はむつ小川原港を経て太平洋に通じる[2][5]。
かつては汽水湖で、サケ・マス類やウグイ、シジミ類が主な漁獲物だった[2]。明治10年代の鷹架沼の漁獲量の記録によると、主な産品はニシンであり、それ以外にサケ、スズキ、ウナギ等が採れていた[6]。大正年間には、沼の南西岸にある戸鎖集落に佃煮を製造する工場ができ、日持ちしないワカサギ、ゴリ、スジエビ等が佃煮に加工されて出荷されていた[7]。
1966年(昭和41年)に農業用水として利用するための淡水化事業が行われ、防潮堤を兼ねた国道338号(鷹架バイパス)の新鷹架橋が設けられ、海水と切り離された[8][2]。 もともと鷹架沼の淡水化が計画されたのは、昭和三十年代、湖の北岸にある発茶沢の水田開発計画が事のおこりであった。この計画は昭和40年代に国の減反政策を受け中断した。
施設
編集沼の西端の室ノ久保集落付近は青森県道180号尾駮有戸停車場線が通過している。 近隣施設として、ろっかぽっか(日帰り温泉施設)、ゆとりの駐車場、鷹架野鳥の里森林公園がある。
かつて、鷹架沼の南岸に鷹架村という集落があったが、昭和53年、むつ小川原開発計画に基づき、むつ小川原開発公社が地権者に対し土地の明け渡しを通告[9]、翌昭和54年9月をもって鷹架村は閉村[10]、住民は千歳平に移転し、現存しない。
現在は、南岸に約51万枚の太陽光パネルを擁する太陽光発電設備である六ヶ所ソーラーパークが操業中である[11]
動植物
編集植物
編集寒冷なため枯草が腐らないまま圧縮されて堆積する泥炭地であり、貧栄養の酸性土壌であるため、農地に適せず、このため、湿原が残されることとなった[12]。 また、寒冷な泥炭地のため、本来なら高山でしか生育しないはずの植物が海にほど近い土地に群落を作るという点で特異である。 鷹架沼湖岸で特に上げられるのは、モウセンゴケ[13]、ワタスゲ[14][15]、ヨシ、ニッコウキスゲ[15]、および、ショウジョウバカマ[16]。
絶滅危惧種が生息する。特に鷹架沼で挙げられるのは、チャボイ(カヤツリグサ科)、カタシャジクモ(シャジクモ科)[17]。
動物
編集ヤマトシジミ (貝)が生息している。また、尾駮沼とともに淡水産卵型の春ニシンの産卵場でもある[18]。
漁業権は六ヶ所村海水漁協が有し[19]、コイ、フナ、ウグイ、カレイ、ワカサギ等を対象として漁業を行っている[20]。なお、核廃棄物処理施設建設に伴い、昭和54年に鷹架沼の一部の漁業権は放棄されている[21]。
白鳥の飛来地である。この地の白鳥はヨシやマコモを餌にする[22]。 この地方に「高架沼に春過ぎても白鳥居るは凶」という言い伝えがある。春に水温が上がらないと不作になるという言い伝えである[23]。 オジロワシの越冬地でもある[24](オジロワシは村の象徴となる鳥でもある)。
陸奥湾運河計画
編集下北半島の北東端の尻屋崎は、濃霧と冬の強風のため古来より海の難所であった。明治9年に尻屋埼灯台ができたが、明治16年から25年の間には16件の海難事故があった。また、ロシアとの戦争が予期されていた世情から、津軽海峡を封鎖されたら陸奥湾の湾口を押さえられ艦隊が行動できなくなるという観点もあった。 成田鉄四郎は、尻屋崎の害を説くにあたり、地元民のおどろおどろしい「蛮習」について記している。成田の冊子によると、尻屋沖で起こる海難事故は地元民の臨時収入がわりになっていたという。尻屋沖で海難事故が起こると、地元民は船員を助けるのだが、酒食をふるまうと見せかけてしたたかに酔ったころを海に突き落として殺害し、船の積み荷を我が物にするのが常であったという[25][26]。
こうした問題のため、下北半島を横断し尻屋崎を迂回する運河の計画がいくつも提唱されてきたが、そのほとんどは半島の幅が最も狭くなる鷹架沼を立地とする案であった[27]。
南部藩は延宝元年(1673年)に下北横断運河建設の是非を調査し、3ルートについて検討している。そのうちの一つが野辺地-室ノ久保間を開鑿し鷹架沼に抜けるというものであった[28]。
明治22年、もと斗南藩少参事であった広沢安任は、独自の測量結果に基づく室ノ久保-陸奥湾開鑿案の意見書を、青森県知事と連署の上、内務大臣に進言した。内相に派遣された技師は現地を視察の上、「……この開鑿は北はカムチャツカ千島より東京湾に到る中間無比の連絡港なるべし」と肯定的な報告をしたためていたが、明治24年に広沢本人が死去。さらに東北本線が開通し蝦夷地-東京間の大量輸送に目途がついたことなどにより、本件はうやむやとなった[29]。
明治39年、青森県のジャーナリスト成田鉄四郎は、鷹架沼の室ノ久保から雲雀牧場を経て陸奥湾側の盛沼(いまは巫女沼イタコヌマと呼ばれている)まで一里ほどの間を開鑿すべしと論じた[27]。
大正八年、北山一郎(代議士)が陸奥運河計画を国会に提案し可決された。 また、昭和十三年、青森県議会から第一次近衛内閣に陸奥運河開削計画が提出され、第74回帝国議会で採択されたが、時局柄予算がつかず実現には至らなかった[30][28]。
戦後も青森市を中心に陸奥運河開削期成同盟が組織され、検討が続けられた。
脚注
編集出典
編集- ^ 国土地理院 (2015年3月6日). “平成26年全国都道府県市区町村別面積調 湖沼面積” (PDF). 2015年3月8日閲覧。
- ^ a b c d e 『日本歴史地名大系 2 青森県の地名』p200「鷹架沼」
- ^ 南部叢書刊行会編 歴史図書社刊『南部叢書 巻七』昭和46年
- ^ 『青森県の湖沼』工藤英明・山内重孝著、制作協力デイリー東北新聞社、2023年7月発行,p.63-65
- ^ 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』(コトバンク「鷹架沼」にて確認)2015年12月10日閲覧。
- ^ 「六ヶ所村史 中巻」p.483。明治20年ころに編纂された『陸奥国上北郡村史』を引用している。
- ^ 「六ヶ所村史 中巻」p.483
- ^ 公益社団法人 日本観光振興協会 観るなび青森県 鷹架沼 2015年12月10日閲覧。
- ^ 『六ヶ所村郷土史年表(四訂版)』六ヶ所村史刊行委員会、p.226
- ^ 『閉校記念誌たかほこ』六ヶ所村立鷹架小学校閉校記念誌事業協賛会、昭和59年3月, pp.24-26
- ^ 六ヶ所村次世代エネルギーパーク公式ウェブサイト
- ^ 『小川原湖の自然』田高昭二著、東奥日報社、昭和五十三年十月, p.15, p.229
- ^ 田高, p.219
- ^ 田高, p.231
- ^ a b 『六ヶ所村史 下巻II』六ヶ所村史編纂委員会、p.139
- ^ 田高, p.23719
- ^ 青森県レッドデータブック改訂委員会・青森県環境生活部自然保護課『青森県の希少な野生生物』(平成22年)pp55,133
- ^ 建設省東北地方建設局青森工事事務所『七十年史』平成元年p.114
- ^ むつ水産事務所 青森県
- ^ むつ水産事務所
- ^ 基本的立地条件について 原子力規制委員会
- ^ 田高、p.34
- ^ 横浜町誌編纂委員会『開村百周年町制施行二十周年記念誌 ふるさと物語』(昭和五十三年)、p.67
- ^ 田高、p.45
- ^ 『陸奥湾之将来』
- ^ この『陸奥湾之将来』という冊子はきわめて政治色の濃いもので、誇張や早まった断定がそこここに見られる。ここでいう土民が船乗りを謀殺するがごときは半ば虚構であろう。ただ、海難事故が臨時収入になっていたというのは本当のようで、例えば享和二年五月の記録によると、発見者は代官所に訴え出て、代官が最寄りの村々へ加勢人足を出すよう要求し、荷の回収に当たらせる。無傷の荷は返却し、傷物、次ぎ品は役人の見分を経て人足数に応じ配分した(『下北半嶋町村史』のうち「東通村史」, p.126-127,名著出版,昭和55年2月発行)
- ^ a b 青森市役所港湾課内陸奥運河期成同盟会編『陸奥湾之将来』(1964年)pp.47-54。同名の書(成田鉄四郎著、明治三十九年九月八日発行)の復刻版である。
- ^ a b 六ヶ所村史編纂委員会編『六ヶ所村史 中』p.619
- ^ 葛西富夫『斗南藩史』斗南会津会刊, 昭和46年, p.267
- ^ 『陸奥湾之将来』p.101