嘉藤 栄吉(かとう えいきち、1917年 - 2008年6月28日)は、兵庫県出身の日本の元アマチュア野球選手。兵庫県立明石中学校(現:兵庫県立明石高等学校)在学中、全国中等学校優勝野球大会(現在の高校野球)に複数回出場。特に1933年の中京商対明石中延長25回に出場した選手として知られ、同試合に出場した両校合せた全選手の中で最後の存命者であった。

来歴 編集

1917年明石市にて生まれた。1931年に兵庫県立明石中学校(現・兵庫県立明石高等学校)に入学。甲子園には5回出場(春3回〈1932年1934年〉。夏2回〈1932年1933年〉)。1932年春と1933年春準優勝2回に貢献した。

そして1933年夏の大会・準決勝第2試合で、高校野球史上最長となった中京商対明石中延長25回戦に6番・二塁手で出場。延長25回裏に大野木浜市(中京商)が打ったセカンドゴロを本塁へ悪送球(記録上は失策)し、チームはサヨナラ負け(最終スコアは0-1×)を喫する。当時チーム最年少(15歳)で、身長160cm余りの小柄な身体だったものの、持ち前の気の強さで、同級生でいち早くレギュラーを獲得したと伝わる[1]

1936年に明石中学卒業後は、満州国中国東北部)の実業団チームで野球を続けた。戦後内外ゴム(本社:明石市)で、準硬式野球のトップボールの開発に携わり、裏方から野球の発展に尽力した。1993年には、兵庫県の高校球児OBチームを結成して75歳の高齢ながら監督を務め、大阪府京都府の高校球児OBチームと対戦した。2003年には85歳にして、全国高等学校野球選手権兵庫大会始球式を務めた。

2008年6月28日午前2時35分、前立腺癌のため、明石市内の病院で死去、享年90。延長25回の試合における両校併せた全出場メンバー中、最後の生存者であった[2][3]

嘉藤は生前、自身の判断ミスでチームを敗戦に追い込んでしまったことを生涯に渡って悔み続け、「延長25回の話をするのは辛い」と述べていた。そんな嘉藤を当時の明石中野球部の部長だった、竹山九一は度々叱咤激励し、1935年に他校に異動してからも、同窓会で嘉藤に対して「8月19日(延長25回のあった日)のこと、まだ気にしとるんとちゃうか?気にしたらあかんぞ。」と優しく接した[1]。また家族の証言によれば、講演を頼まれることも多かったが、1時間以上に及ぶ講話の原稿をすべて暗記して当日に備えたほど、常に自分に厳しく、弱音を吐いたことなど全くなかったという[1]

脚注 編集

  1. ^ a b c 兵庫県道徳副読本『小学校5・6年 心ときめく』【p102~p107】忘れない夏―嘉藤栄吉―
  2. ^ 甲子園延長25回の証人、嘉藤栄吉さん死去 - 朝日新聞2008年6月28日
  3. ^ 中京商側の最後の生存者は、大野木浜市(2004年7月5日に88歳で死去)である。

関連項目 編集