岩崎清隆 (野球)
日本のプロ野球選手 (1951-)
岩崎 清隆(いわさき きよたか、1951年6月15日 - )は、福岡県[1]福岡市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手、内野手。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 福岡県福岡市早良区原 |
生年月日 | 1951年6月15日(73歳) |
身長 体重 |
178 cm 72 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手、内野手 |
プロ入り | 1969年 ドラフト4位 |
初出場 | 1970年9月24日 |
最終出場 | 1970年10月19日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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来歴・人物
編集博多工業高校では1968年、2年生の時に一塁手として春の選抜に出場。1回戦で平安高の池田信夫に完封負け。この試合でリリーフとして甲子園初登板を果たす。その後、エースとして今久留主邦明とバッテリーを組み、同年の秋季九州大会で決勝に進出。宮崎商の西井哲夫と投げ合うが惜敗した。1969年の春の選抜に連続出場。準々決勝で県岐阜商の鍛治舎巧に投げ勝ち、準決勝に進むが、堀越高校の但田裕介に完封負けを喫する[1]。他の高校同期に遊撃手の入江道生がいる。
1969年ドラフト会議で東映フライヤーズから4位指名を受け入団[1]。本格派右腕と期待され、ルーキーながら1970年10月には先発陣に組み入れられるも結果を残せず、その後は登板機会に恵まれなかった。1973年には内野手に転向した。翌1974年にヤクルトスワローズへ移籍するも、一軍での活躍なく現役引退。
入団当初はオーバースローだったが、途中からスリークォーターにモデルチェンジ。スライダー、カーブ、シュートを武器とした。
現在、少年野球の糸島ボーイズの代表をつとめる。田浦文丸(ソフトバンク)は教え子で前述の通りに自身がかつて甲子園で対戦した鍛治舎との縁から秀岳館高校への進学が決まったという[2]。
詳細情報
編集年度別投手成績
編集年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1970 | 東映 | 8 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | -- | -- | .000 | 112 | 25.1 | 29 | 5 | 10 | 0 | 1 | 6 | 0 | 0 | 19 | 19 | 6.84 | 1.54 |
通算:1年 | 8 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | -- | -- | .000 | 112 | 25.1 | 29 | 5 | 10 | 0 | 1 | 6 | 0 | 0 | 19 | 19 | 6.84 | 1.54 |
背番号
編集- 35 (1970年 - 1973年)
- 不明 (1974年)
関連項目
編集脚注
編集- ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、69ページ
- ^ 小畑大悟「2人の恩師が紡いだ運命/いい出会い「名前のおかげ」 5位田浦文丸㊦【2018 サンシャインルーキーズ】」『西スポWEB OTTO!』2017年12月7日。2024年5月8日閲覧。
外部リンク
編集- 個人年度別成績 岩崎清隆 - NPB.jp 日本野球機構